島義勇が、わずか3ヶ月で札幌の建設を降ろされた理由
島義勇の構想をもとに札幌は建設をしていき、現在では市役所ロビーに像が置かれるほど
その功績は評価されているが、11月に建設を開始し翌年2月には任務を降ろされています
島は多額の経費を短期間に消費し、また独断専行の行為が多かった。
当時の開拓使長官、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は政府に「島の独断専行で財政窮地
をもたらしたので、財政を補てんするか島を処置してほしい」と報告した。
その結果、大学少監に転出させられた。
樹木が無くなった
明治17年に安場保和(参議院議員のちに道庁長官)は「北海道巡回日記}に次のことを
述べられている。
「(上略)、初めこの地を開くや、大木を切るを目的とし、一木を倒せば賞あり、以て繁茂の
状を察すべし、故に市街巨木樹木乏しい。」
町づくりは樹木の伐採が先決であり、その木材は冬の燃料になるため開拓使もそれを
移住者の仕事にすすめて賞を与えたため、残さず切り過ぎて後で後悔したことが記され
ている。
大通公園は宅地になっていた?
明治時代の大通は、博覧会や運動会、式典などが行われたといっても、一年のほとんどは
空地の状態であった。大通の空地を宅地化したい等の声が出てきて明治24年には市民
より大通宅地化の意見が提出されたが実現しなかった。