その9
「三十三ヶ所」の巻(1979.12.bR)
生れて初めて「手稲山」に登ったのは、小学5年、昭和11年のことだった。札幌駅から
汽車にのり込み軽川(現手稲)で下車、それからは川に沿った登山道を只々歩くだけで
やっと「千尺高地」と称する高原状の平坦地に辿りついて一休み。これが現在の「手稲
オリンピヤ」付近と思われるが、頂上はまだまだ先のことで、これからは沢登りが始まる。
沢を石づたいに、足を濡らさない様に注意しながらの登りだから、かなりキツイ。そうして
これが終わると、熊笹のトンネルになっ
た小径をただやみくもに掻き分けながら進むのだ
から、先を行く父親に遅れまいとする
だけで必死だった。だからこそトンネ
ルが終わって、突然目の前に頂上が
あらわれた時の喜びは何物にも変ら
れず、目の下の日本海を眺めながら
の「おにぎり」に登山の醍醐味を知っ
たのだった。それからは毎年登った
が昭和17年になると、もう大東亜戦
争も始まっていて、登山する人もメッ
キリ減ったとみえて、登山道も荒れ
ほうだいで、頂上から再び今来た道
を戻るのは嫌気がさして、伐採したば
かりの火防線づたいに下って行った
ら、崖の下に親仔づれの熊がいたの
で、ものも言えずに逃げ帰ったことも
ある。
いずれにしろ「手稲登山」は一日仕
事だったわけだが、先日、車に乗せら
れ、ロープウェイで頂上まで案内され
た。TVアンテナの林立した周辺の風
情は、いやはや何とも殺風景なもの
で「物見遊山」と言う言葉があるが、
「登山」ではなく「遊山」にすぎず、我
が家からの往復も僅か3時間足らず
にすぎなかった。
◆
「円山」に登り始めたのは小学校へ
入る前からだから、勿論昭和一ケタ
時代のこと。市電の円山終点─この
終点に田舎の駅舎の様な、小さな待合所があったことを記憶している人は少なくなった─
から「坂下グランド」をすぎ、小川の橋を渡ってから左手の杉の木立の奥にうす暗く、ヒッ
ソリ建っているお堂の傍が登山口になっていることは今も昔も同じ。
この登山道は大正3年、上田さんと言う人が私費を投じて造ったものだそうで、同じ頃、
成田山新栄寺の住職、神野さん等が、四国の弘法大師の遺跡八十八ヶ所にちなんで、
円山八十八ヶ所の霊跡を造ったと言うのが、登山道に沿ってお祀りされた八十八体のお
地蔵様。四国一周と異なり、標高226米程の「円山」だから登山道の延長も知れたもの
で、一番、二番とお地蔵様の番号を読みながら登って行くと、三体程並んでいるヶ所もあ
って、そう疲れることなく頂上に達する。山頂には「山神」の碑があるが、明治の初期、開
拓使の庁舎を建築する際の石材を頂上付近や南斜面から切り出した石工達が建立した
ものだ。
古代より「山神」は女性でシット深いとされてきた。悪友から一寸一杯と誘われて、「うち
のカミサンがうるさいんでネー」と断るカミサンは、シット深い山の神様−うちの女房−カミ
サン、と変わって来たもの。
閑話休題、「円山」は「八十八ヶ所」で、「八十八ヶ所」は「円山」なることは今日でも通用す
るので「八十八ヶ所」は古地名にはなっていない。
◆
そこで「三十三ヶ所」となるのだが、結論から言うと「三十三ヶ所」は「藻岩山」のことだ。
「藻岩山」をアイヌは「インカルシペ」(いつも物見をしたところ)と呼んでいた。一方「円山」
が「モイワ」(小さな岩山)。明治初期、時の岩村判官が「モイワ」山麓の村を「円山村」と名
付けたので、「モイワ山」も「円山」と呼ばれる様になり、宙に浮いた「モイワ」は「インカルシ
ペ」を追い出し「藻岩山」として横すべりに居坐ってしまったという、ややこやしい経過がある。
この「藻岩初登山」も小学校に入る前だったが、山鼻西線の南14条で降りて西に向かい、
エルム山荘傍の坂を上がると右手に「清水観音堂」、左手に「養老院」のある辺が登山口
だった。この登山道が本格的に整備されたのは明治も中期のことらしく、明治26年の古地
図には、今と同じ道筋が記載されている。そうしてこの山道に沿って「三十三体」の佛像が
安置されているが、標高226米に八十八体の「円山」に対して、531米に三十三体の「藻岩」
はその間隔が著しく長いことになる。だからこそ「一番」「二番」とあえぎつつ、汗を拭き、頂上
を極めて帰ることは、小学生の一日行程だった。
ロープウェイや観光道路にたよらず、こんなに身近にある、大正10年指定、「史跡名勝天
然記念物」たる原始林に囲まれた山道を、1年に1度位はゆっくりと辿ってみてはいかがな
ものだろうか。