その7
「岡橋」の巻(1979. 3.bR)
現在、国鉄函館本線には何本かの「陸橋」が架けられている。しかし当時は只の一本だけ
で、竣工の時はその上を電車が走るというので大騒ぎだった。その当時とは昭和七年秋、私
の小学校1年生の時の出来事で札幌市の人口も18万程度の閑静なたたずまい、とにかく
鉄筋コンクリートのこの岡橋(おかばし)を電車で渡ってみようという市民で、北18条行きの
電車は暫くの間は満員続きだったそうだし、この札幌駅の西側、西5丁目に架けられた「岡
橋」その物が札幌名物の一つに数えられていたのであった。
札幌市史(昭和28年発行)にはこう
記されている。
「鉄北方面は大部分農学校学園の官
有地で住家も少なく、また列車の運転
回数も少なかった。しかしその後農学
校々舎移転、農園の住宅地としての開
放、北部農村の発展につれて交通量
は著しく増加してきた。ところが鉄道と
南北道路が平面交叉しているため、列
車の通過、機関車、客貨車の連絡、岐
線入替等の度に交通が遮断され、それ
が列車運行回数の増加に伴って一層
激しくなり、5丁目踏切などは一日の遮
断回数200余回、延時間5時間余にも
達するようになり、交通事故も次第に
増加する傾向を示して来た。よって・・
略・・市では鉄道省と協議を重ねた結果、
5丁目通りを市と鉄道省との共同負担
で跨線道式に改築することとなり、昭
和6年春に起工と決した。この道路の
延長228間余(うち跨線橋の部分44.
5米)幅員16.4米、経費27万2千3百
14円(うち市負担20万7千7百10円)
である。これは翌7年竣工、鉄南・鉄北
の連絡交通は著しく便利となった。」
※
その頃の電車の路線網は図示の様に
なっていて、この「岡橋」が出来る迄の鉄北線は、北6条の踏切前と北18条の間をピストン
往復していたわけで、車体をオレンヂ色に塗ったのと、若草色のとがあって、運転席はむき
出し、四輪の極めて可愛らしいものであった。車庫は北10条西4丁目で今交番のある東裏
にあって、戦後暫くの間残っていたが何時の間にかなくなってしまった。
又、札幌市史によると昭和6年に起工された「岡橋」の建設は2年がかりで7年の秋には完
成したわけで、私が1年生の秋、「岡橋」の上に櫓が立てられ竣工式の餅まきがあった記憶
とは一致するものの、この2年間に渉る大工事による混乱らしいものについての記憶は殆ん
どない。子供は危ないから近寄るなといわれ、専ら大学の川でトンギョすくいでもしていたの
だろう。ある故老から、「今の建設工事の騒音に比べれば、実に静かなものだった。何しろ練
鉄板をズラリと並べ、コンクリート打ちは総て手練(・・)でやったのだから」と聞かされたが大正
14年の写真には既にコンクリートタワーが写っているのだから、ミキサー位は使われていた
とは思われるが、「総て手(・)練り(・・)でやった」という伝説?の真偽は別として、何かしら温か
いものを感じるのは、練(・)スコ(・・)で苦労した我々世代のホロにがい感傷かも知れない。
又、北4条の仲通り(労銀のところ)から北7条の仲通り迄、3丁にわたって架けられた「岡橋」
も前述のように本当に「橋」の部分は44.5米で、他の部分は「盛土」だが、この盛土も火山
灰の様なチャチなものではなく、当時は無尽蔵だった豊平川の玉石と切込砂利がビッシリと
詰め込まれている。だから戦争中に陸軍が車道部分を掘っくり返して、中味をゴッソリどこか
へ持ち去り、後はいいかげんな埋土をしたので、相当な凹凸が昭和30年初期までも残ってい
た。
※
交通渋滞の為、「岡橋」の東側に電車専用の「岡橋」が架けられたが、地下鉄開通と同時に
これは取り外された。往時南北交通の一大福音となった「岡橋」も今や南北交通の一大ネック
となってしまった。
程なく始まる国鉄高架により、この「岡橋」も50歳の生命を終えようとしている。そうして「岡
橋」の名も人々の脳裏から忘れ去られてしまうことだろう。