その52
「行啓通」の巻(1994. 8.bQ)
明治初期から終戦前までは、皇室に係る用語は厳格に守られていて、一般
市民が皇室用語を、例えフザケ半分で使っても、ただちに「不敬罪」に問わ
れ、そのまま「ぶたばこ」入りとなった時代だった。
天皇が皇居を出て、(「お出ましになって」と称した)どこかへ出掛ける
場合、古代には「みゆき」と云ったが、この場合は「行幸遊ばせられる」と
云う風に表現されていた。
「行幸」は天皇唯一人だけの為の用語だったのだ。
ところで標題の「行啓」も、これまた、たった数名の為の用語で、この数
人とは、
太皇太后(天皇の祖母)
皇太后(天皇の母)
皇后(天皇の妻)
皇太子(天皇の後継者=長男)
皇太子妃(皇太子の妻=雅子さん)
皇太孫(天皇の孫)
等にだけであった。
◆
さて、「行啓通」だが、実は札幌にはこの「通り」が2本あることになって
いるようだ。
1本目は山鼻にあって、これは現在もその名称が日常使われていて古地名で
はなく、しっかりとした「現役」だ。
しかし、もう1本の方は、どうも雲散黒消してしまったらしいが、この方は
後まわしにして、先ず「現役の行啓通」から筆を進めることにした。
◆
「現役の行啓通」
・経路 厳密には、鴨々川に架けられた「南14条橋」から「石山通り」(西
11丁目)までの約600米を云うが、現在ではその延長が藻岩山麓まで続い
ている。
・歴史
(1)明治天皇が明治14年に北海道へ「行幸」になり、札幌「豊平館」
にお泊りののうえ、「石山通」を南下されて、屯田兵の作業振りをご視察にな
った。この際、現在の「山鼻小学校」の南側に聳えている巨木を指さして、
「あれは何か?」と、ご下問になった。(質問された)側の者が「柏の大木で
ございます」と答えたそうだが、それ以来、この柏は「お声がかりの柏」と称
される様になり、私の中学生時代(昭和14年頃には)「小公園」からはみ出
て、道路上に健在であった。
(2)明治44年(1911) には皇太子(大正天皇)が「行啓」になった。こ
の時は「中島遊園地」(現公園)から南14条通りを西に進まれ、父親であっ
た明治天皇と同じように屯田兵の作業振りと、「お声がかりの柏」のご視察が
目的だったらしい。
そもそも、この南14条通りは、伏見方面から中島・豊平方面へ通じる唯一
の道路であったにもかかわらず、幅員が狭く不便だったので、この際と云うわ
けで地主一同が土地を寄付して、現在の道路幅にしたものだそうだ。
従って、「柏の巨木」が道路上に聳えていたのは、この事が原因だったよう
だ。
(3)更に大正11年には時の皇太子(昭和天皇)が、同じ道筋を「行啓」にな
った。
この3代にわたる「行幸・啓」にちなんで南14条通りは「行啓通」と銘名
され、沿道住民の昭和初期からの努力もあって、電車通から東屯田通の間は、
にぎやかな商店街となって、現在に及んでいる。
・補足 「行啓通」と「西屯田通」とが交叉する一角に「北海道庁立札幌工業学
校」があった。何しろ大正5年建設だから、男子の学校としては札幌一のボロ
校舎だった記憶が残っている。女子用としては何と云っても「北海道庁立札幌
高等女学校」は大変なボロ校舎だった。こちらは明治35年の建築だから「札
工」よりは15も年上の姉さんだったのだ。
◆
「第2の行啓通」
先にも述べた様に「行啓通」は昔から伏見方面と豊平・白石を結ぶ道路であっ
たから、今でも道
をたどれば、米里
方面にはたしかに
通じる筈だ。だか
ら現在の正式名称
が「米里・行啓通」となっているのだ
ろうが、便利な幅
の広い道路がどん
どん建設されてゆ
くので、多少遠回
りになっても、目
的地には早く到着
できる場合が多く
なってきた。
従って、「元祖
行啓通」の起点を
「南14条橋」と
した場合、これか
ら米里方面への延
長路程が、やはり
「行啓通」で、これは「2本目の行啓通」とでも云うのだろうが、札幌道路網図を
見ても、どうも今1つピンとこないのだ。
ちなみにその経路は次の様に示されている。
中島公園
↓
中の島
↓
豊 平
↓
白石中央4丁目道路を北上
↓
北郷1丁目線
↓
米 里
いづれにしろ、私としては、札幌市内における「古地名」がどんどん消滅
してゆく現在、「行啓」と云われても何の事やらわからない若者達によって
「行啓通」もいつしか忘れ去られる時代の到来が真近に迫っていることを、
心から憂えるのである。