その51
     覚書その三「月寒種羊場」の巻(1994. 3.bP)

 「羊ヶ丘展望台」は知っていても、かつては、此所が「月寒(つきさっぷ)種羊場」で
あった事を知る人は少なくなった。
 「月寒」と聞けば、真先に頭に浮かぶのは、「25聯隊」、そうして「種羊場」が、昭和
一桁時代を小学生で過ごした我々世代には抜きがたい地名に係る記憶であることは
確かだ。
 そこで、今回はこの「種羊場」について述べることにしたが、いつもの様にこの稿も
学術的研究論文では無い。
 飽くまでも私の記憶と、記憶のアヤフヤな点は、北大卒業後、定年退官まで一筋に此
所で研究生活を送った、旧一中(現南高)時代の友人からの助言によって、まとめたも
のであることを最初におことわりしておく。
 「種羊場」とは、要するに牡の「めん羊」、即ち「タネめん羊」を飼育していた牧場であ
った。
 どうして、この札幌に「種羊場」が設立されたのか、と、云うことは、日本人の「衣・食・
住」について考えてみる必要がある。そうしてこの3項目とも、それぞれに重大な関連
をもっているのだが、紙面に限りがあるので、その内の「衣」について、前置きが少々
長くなるが述べることにする。
  日本人の衣生活
 「木綿」は大昔から、日本人の衣生活の主流だった、と、思っている人が多いが、実は
これが大きな間違いだ。
 「木綿」の使用が庶民にまで行きわたったのは徳川時代初期とされている。この事は、
朝鮮へ出兵した加藤清正が、部下の将兵が寒さに震えているのを見兼ねて、「木綿の
生地を至急送れ」と、本国へ矢の様な催促文を何通も送っていることでも実証されると
云う。その頃から日本国内でも盛んに「綿花」が栽培される様になった。「綿」は非常に
肥料を喰う。この肥料に不可欠だったのが、本道産の「鰊カス」だったのだそうだ。
 さて、「木綿以前」は何が衣服の原料だったのか。
 「絹織物」は日本神話の太古からあったことは確かだが、何分に高価な貴重品でトップ
クラス用で、下々の者には手の届かない存在だったから、彼等が原料にしたのは木や
草(麻等)の繊維で、「紙」の着物まであったのだ。
  富田強兵
 「徳川幕府」が倒れ「明治政府」が発足した。新政府は「早く西欧に、追い付け、追い
越せ」で努力した。発足から10年して「西南の役」が始まったが、和服姿に襷掛け、鉢
巻姿に日本刀の勇猛な薩摩隼人も雨と寒さに打震え、「毛布(けっと)」を持ち「ラシャ
(WOOL)」の軍服、そうして「洋式銃」の「百姓兵」の前には、脆くも敗れ去ってしまった
のだ。
 「富国強兵」(他国から押し負けを喰わない強い軍隊を持った、豊かな国)が新政府の
モットーだったが、強兵を育てるには、武器もさる事ながら、「衣」問題も又、忘れてはな
らぬ事を痛感していた筈だ。
 それから10年。日本とロシヤが睨み合い、一瞬即発の状態になってきた時、戦地は寒
いシベリヤ方面になるだろうと考えて、弘前と青森の両聯隊から演習の為「耐寒行軍」の
一隊が出発した。コースは十和田湖をへて帰隊する予定だったが、青森隊は八甲田山中
で全員凍死という大惨事が発生した。
 原因は色々糾明されたが、「衣」問題も重要な課題となった。そうして悪戦苦闘の末、
日露戦争に勝つには勝ったが、兵隊の「衣」は全て輸入品の毛織物に頼らざるを得なか
ったのだ。
 これではいかん。「毛織物」の原料の「羊毛」を国産で、と云うことから浮上してきたのが
北海道だったのだ。
 幸に、北海道は明治初期から「お傭い外国人」達の提唱で牧畜が盛んだ。
 牛馬に関しては既に十分な実績をあげている。彼等に「めん羊」を飼わせよう。一般農
家にも副業的に飼わせてはどうか。優秀な「種羊」はどんどん貸してやろう。剪り取った「羊
毛」は政府がすべて買い上げればよろしい。
 この様な構想のもとにスタートしたのが「月寒種羊場」なのだ。
  「種羊場の歴史」
 いちいち述べてゆくとわずらわしいので、ごくかいつまんでみると次のようになっている。
・明治39年(日露戦争終結の翌年で約90年前)農商務省種畜牧場が設置され、「めん羊」
の研究が開始された。
・大正8年(約75年前)
 独立した「種羊場」が設置された。
・大正13年(約70年前)
 在来あった「種羊場」の用地が拡大され、面積は約1,100haもある広大な「月寒種羊場」
が完成した。そしてこの名称は終戦直後の昭和21年迄続いた。
・その後、現在では農水省の農業試験場月寒試験場内に道立の「農業試験場畜産部」とし
て残されてはいるが、安い輸入羊毛に太刀打ちできず、要はその規模は縮小されてしまった
事になろう。
・昭和34年
 「羊ヶ丘展望台」が作られた。少数のめん羊が草をはんでいる姿が、訪れる人々の目を楽し
ませてくれてはいるものの、彼等は観光用に飼育されていることは案外知られていない様だ。
  「種羊場」の1年
「月寒種羊場」の最盛期には、ラムブーイ・メリノ種・コリデール種
 合計1,100頭が飼育されていたと云う。この数は牡の「タネ羊」だけの数字なのか、牝や
仔羊も入っていたものやら不明だが、私の感覚からすれば、もっともっと多かった様な気が
する。そうして、1年間の生活サイクルは次の様になっていた。
・4月  放牧開始
・5月  剪毛
・6月  薬浴
・7月  種牡めん羊の選定
・9月  仔めん羊の離乳
・10月 種牡めん羊の貸付開始
・11月 種付
・2月〜3月 分娩・去勢
  「今と昔」
 今、「羊ヶ丘展望台」に立つと、牧場の広さが、しみじみと実感はできる。しかし、高台から
「見おろす」ことになるから、街の屋並や行き交う自動車が望見される。何しろ1,000米先
には「羊ヶ丘通り」、1,500米先には「国道36号線」が走っているからだ。従って広大さは
実感できても視界は有限なのだ。
 小中時代の私達は「月寒」は遠いの
で自転車で行ったものだ。
 「豊平橋」を渡り、市電に添って行くと
暫くして「豊平終点」に着く。右手には
「温泉電車」の「豊平駅」があった。(建
物は今でもある)。この踏切を越えると
途端に人家は途絶えて、現在の「美園」
あたりは、両側が一面田圃だったのだ。
それから道は登り坂となり、やっと月寒
の街並みとなる。街並みと言っても道路
の両側に民家が並ぶ「町」にすぎなかっ
たが左手に「25聯隊」の一群の建物が
あるだけで、現在「共進会場」のあるあたりは、草茫々の演習場だった。
 それから道は登りが続き、汗をふきふき走ると、やっと右手に牧場の入口が現れる。現在
では「中央バス月寒ターミナル」になっている所だ。国道と直角に走る太い落葉松の並木道
(これも残っている)を約500米も行くと、やっと小さな「守衛所」があった。
 当時は観光地でも何でもなかったから、然るべき連絡なり紹介状の無い限り、守衛のおっ
さんは、それから先には絶対入れてはくれなかったのだ。
 この門を通過すると目の前は一望の牧草地で「めん羊」の群が点々、所々に背の高いポプ
ラが聳えているのみ。下からなだらかな丘を見上げるかたちになるから、稜線が地平線とな
って視界は正に無限、そのはるか彼方には背の高い山々の頂きが、かすかに浮かんでいた。
「草いきれ」のするなかに身を横たえると、「白雲悠悠去りまた来る」で、都会の騒音等は一
切聞こえず、幼な心にも「天上天下我一人」の感を深くするのだ。
 夕暮れ近くになると、牧羊犬がいそがしく走り廻って、放牧された「めん羊」を何群かにまと
めてゆく、そうして彼等は長い列を作って牧舎に戻るのだが、旧北大予科の寮歌にも残って
いる様に、「羊群声なく牧舎に帰り 手稲の頂こめぬ」。
 そのままの情景(シーン)が展開されていたのだ。
  「それから」
 昭和22年頃のことだ。真駒内の現場で、大工達が南東方面を指さして騒ぎだしたので、フト
目をやると、何と空一面にパラシュートの華が咲いているではないか。この記憶は鮮明に残さ
れているので、記録をたどってみたら、「昭和22年、種羊場の南700haは、米軍の演習地と
なる」とあった。
 成程、当時スイング少将指揮下の「第11空挺師団」というのが進駐していたので、彼等の
降下演習場になっていたのだ、と云うことが今更のよう納得できた次第だった。
 さもあらばあれ、今は消え去った「種羊場」と「25聯隊」のふたつの固有名詞は、今ではもう
月寒方面一体をさす「古地名」となってしまったのだ。