その50
覚書その二(1993.12.bQ)
前回は昭和51年の第3号(12月発刊)から始まった「札幌古地名考」について、
昭和61年の第3号(やはり12月発刊)までの10年間にわたるテーマについて述
べたので、今回はその続編として、現在までの分を紹介したい。
と、いうのは、何しろ書き始めが17年も前のことなので、最近「〜について書いて
下さい」と言われてもそのテーマは既に取りあげたものばかりだからだ。
考えてみると「古地名」ともなれば、相当に年輩の人が、「そう言えば、我々の幼
い頃には、アソコらあたりは、ソウ呼ばれていたなー」と、時々懐しく憶い出すもの
ばかりの筈で、人口18万の札幌市がその10倍の人口を抱えた大都会となってし
まった現在では、自然増に伴う「札幌原人」の子孫は希少化し、「古地名」も懐しむ
人間の数は極めて少数と言わなければならないだろう。 社会増(転入・転出)で
「札幌人」になった人々、言わば「札幌新人」で90%を占められ札幌市における「古
地名」は、それ等の人々にとっては、何等の興味も引かないことかも知れない。
しかし、歴史を伝えるササヤカな一端として、父方からも母方からも「原人」の4代
目として生を享けた私は、「ネタ切れ」にならない限り、この稿を続けたいと思ってい
る。
だから、読者の中に「?}と思われる地名に気付かれた方は、どうか遠慮なく事務
局までご一報いただきたい。私はそれを待ち望んでいるのだ。
◆
(その28)「琴似街道」の巻
「円山小学校」の東側の通りが、そう呼ばれていた。この道を真直北に上ると、北5条
で旧国道5号線(通称札樽国道)とぶつかる。だから「小樽道」又は「銭函通り」とも呼
ばれていた。(1986.4)
(その29)「オタネ浜」の巻
銭函と新川の川口にはさまれた部分の砂濱一帯をそう呼んだ。
昭和40年頃、札幌市交通局によって、海水浴場が開設された。その時「オタネ浜」
は「大浜」と変称された。そうして現在では「ドリームビーチ」に変わってしまったが、
昔は、漁師の家が4、5軒チラバッタ淋しい砂濱だったのだ。(1986.9)
(その30)「弾丸道路」の巻
昭和21年、アメリカ軍が真駒内に進駐して来て、豊平川の右岸の堤防を低く平に
均して簡易舗装をした。ジープやトラックがビュンビュン走るので、これをそう呼んだが、
間もなく札幌と千歳間の国道36号線が拡巾・直線化されて完全に舗装されると、そ
の名称はコチラへ移ってしまった。
現在の「高速自動車道」のことではない。(1986.12)
(その31)「琴似川」の巻
荒井山のあたりが源で新川へそそいでいる小川。一部地下部分もあるが現在も流
れている。旧円山村と琴似村の村境をなしていた。(1987.4)
(その32)「南斜面」の巻
「双子山」から「円山」の南麓にかけての斜面の旧称。
昭和20年代の前半までは小学生達のスキーの「メッカ」で、所どころ「タランボ」の
ブッシュがあり、下の方には養狐場などもあったが今や民家に埋めつくされて、その
面影は全く残されていない。(1987.9)
(その33)「屠殺場」の巻
札幌市の「屠場」は、最初、現在の柏中学のある場処に建てられたが、昭和の初期
には競馬場の奥、琴似川と新川の合流地点近くに移された。
どちらにしても、当時の札幌では都心を遠く離れた郊外だったに違いない。今では江
別の角山(今の札幌市ではやはり遠い郊外だ)で、北海道畜産公社として存続してい
る。(1987.12)
(その34)「渡舟場」の巻
石山通をドンドン南下してゆくと、南33条あたりで道はやや右に曲っている。しかし、
昭和の初期までは真直に伸びて真駒内市街のメインストリート(右手にオリンピック屋
内競技場がある)と繋っていたのだ。今でも旧道は残っている。この旧道は豊平川とぶ
つかるわけだが、橋が架けられていなかったので、舟による「渡し」となっていたのだ。
「〜の渡し」などとシャレた名前は無くただ「渡舟場」と、言いならされていた。(1988.4)
(その35)「山鼻官舎」の巻
薄野から市電に乗り、創成小(旧西創成小)から左に折れ、南に向かうと南12条西7
丁目(電車の進行方向右手)1ブロックには道庁の「官舎団地」があった。
だから「山鼻官舎」はこの一帯の古地名でもあった。(1988.9)
(その36)「アカシヤ街道」の巻
北大構内、有名な「ポプラ並木」。この並木道は「ポプラ街道」と呼ばれていたが、ポプラ
が終ると両側はアカシヤの並木が続いていた。これを私達は「アカシヤ街道」と呼んでい
たが、アカシヤの並木は現在では1本も残されていない。(1988.12)
(その37)「裏通り」の巻
西屯田通り(西13丁目通り)の15間程東側に南3条から南6条まで、今でも小径が残っ
ている。巾は自動車が交叉できない程の狭さだ。屯田兵屋の裏手に出来た生活道路の名
残かもしれない。(1989.4)
(その38)「あまだれ小路」の巻
二条市場の裏手の仲通りの旧称。 雨漏のする様な、小さな「古道具屋」や「雑品屋」が
軒をつらねていたのでこの名前がついた。今ではその名残は殆んど見当らない。(1989.9)
(その39)「一中前」の巻
旧札幌市電の山鼻線は北18条から南16条の一中前までだった。
それからは単線の「山鼻西線」が続いていたが、一中は札幌市の南はしに建っていた風
情だった。だから、「一中前」附近と言えば、その頃の札幌人には、「アアあのあたりだな」
と、合点がいったのだ。一中は南高と変った。校舎も新しくなったが、場処に変りはない。
だから電停の名称も「南高前」でも良かった筈だが、今では「静修学園前」となっている。
(1989.12)
(その40)「鉄北」の巻−1
「偕楽園」・「桑園」・「琴似」について述べた。
以下「鉄北の巻」は古老の憶い出話等をもとに書き綴ったものであった。(1990.4)
(その41)「鉄北」の巻−2
「円山」・「山鼻」・「中の島」・「平岸」・「豊平」・「白石」について述べた。(1990.8)
(その42)「鉄北」の巻−3
「中島」・「苗穂」のことを書いた。(1990.12)
(その43)「鉄北」の巻−4
昔、鉄道から北は一括して「鉄北」と呼んだ。
しかし、今では鉄道から北は石狩町の花川まで街続きになってしまったので、「鉄北」と
言う地名は自然消滅してしまった感が深い。
しかし、古老達の話によると、南北は鉄道から藤学園(北15条位)、東西は西5丁目(そ
れから西は北大構内となる)からせいぜい東5丁目位までの限られた地域の地名らしいこ
とがわかった。札幌市の人口も18万から20万人位でコジンマリとしたものだったわけだ。
(1991.4)
(その44)「東橋通り」の巻
北3条から北1条にかけて通じていた道路の古名称。
今は拡巾されてその面影は残っていないが、東橋のたもとのバス停には、まだその古
名称が残されている。(1991.8)
(その45)「小林峠」の巻
札幌市内にある峠は、「幌見峠」と「小林峠」の2ヶ所だけだ。
「小林峠」は「八垂別」(現川沿町)から「盤の沢」(現盤渓)に通じる峠道で、その屈曲した
道程は昔と余り変りがないようだ。(1991.12)
(その46)「曙グランド」の巻(1992.4)
(その47)「八十八ヶ所」の巻(1992.8)
(その48)「月寒」(その1)「陸軍歩兵第25聯隊」の巻(1992.12)
これ等はいづれも最近のことなので、詳述は避けることにする。
なお、何しろ長い投稿なので、途中で(その35)が2回ある。従って前回は(その48)で
あったが、今回は(その50)として続けてゆくことにする。