その5
           「軽川」の巻(1978. 8.bQ)        

 私の亡くなった父親は鉄道の役人だった。少しは偉い椅子に坐っていたらしく、家族パスは
「二等」だったが、当時客車には一等から三等までの区別があって、窓の下に三等は赤、二
等は空色の巾15p程の帯が塗られていた。一等車は白帯だそうだが、これは道内にはなか
った。
 さて、この二等車だが、客車一輛の半分が区切られてそれになっていたが、三等の椅子の
スタイルは今の一般客車と同じ向い合はせの四人用だったが、二等になると床は茶色のリノ
リウム貼りで、椅子は紺色のビロードで横に長いソファー型式になっていた。眠たくなったらゴ
ロリと何時でも横になれるという配慮からだったらしい。
 この二等車、当時はかなりの特権階級でなければ乗れなかったものらしく、いつもガラガラ
で今のグリーン車より、もっと閑散としていたが、時には当時大関だった「玉錦」や金ピカの
「閣下」や中国の大学生の修学旅行団と一緒になったり、物凄く太った大女が取り巻き連中
とにぎやかに乗り込んで来たこともあったが「大山デブ子」という女優だったそうだ。
 海水浴時季になると、満員の三等車を尻目に私達は天井で扇風機が首を振っている二等
に乗り込む。これはかなり恵まれた生活だった筈だが童心には、汽車とはパスさえ見せれば
何時でもタダで二等車に乗れるものだ。それが当たり前のことだ。と、しか信じられなかった。
(後年自費で三等車の旅をして愕然とすることになる。)
                       ◆
 汽車は札幌駅を発車、間もなく桑園、琴似を経て軽川に到着する。いつの頃からは不明だ
が駅舎は丸太小屋ロッジ風のなかなか洒落れたデザインだった。
 さて、「軽川」は手稲村字軽川で今の駅の付近、手稲本町一帯をそう呼んだものらしい。今
は旧道になった駅前を通る国道5号線に添って「褌町」だった軽川市街の中央を手稲山から
流れて来る小川があったが−今もあるが−非常に急傾斜なので雨上がり以外はチョロチョロ
であった。夏になると涸れ上がってしまうのでこれを「涸れ川」と呼び、それが「軽川」に転じて
あざ(字)名になったとされている。
 一方、御本家の「手稲」はアイヌ語の「テイネ・イ」(湿地)からきているが、たしかに函館本
線から海側はひどい湿原であった。この湿原も春先は「わらび」の大宝庫であり、秋口には旧
中学校の全校総出の「兎狩り」の場でもあった。
 夏は緑一色の草原で地平線まで緑の中に背の高いポプラが散在していたが、車窓からこ
の草原にポツンと一つの建物が見えた。あれは軽川飛行場の格納庫だと教えられたが、今
ではそれがどのあたりか見当もつかない。当時、世界で一番早いのは燕で次が飛行機だっ
た。北24条西5丁目から北高の一帯に拡がった「札幌飛行場」−勿論だだっ広い草原だった
が−では二枚羽根の「ニューポール」等の布貼の飛行機がプルンプルンとのどかに飛んでい
た頃だから、不時着用の飛行場でもあったものだろうか。いづれにしろ誰か物知りに御聞きし
たいものだ。
 又、駅のすぐ下に巨大な石油タンクが何基かあって、羽根を広げた「こうもり」の様なマーク
がえがかれていた−ように思う。
 これは明治末期に出来た製油所で、茨戸や花畔付近の油田から汲みあげた原油をパイプ
で送り、此所で製油されたものが北海道の全需要をまかなっていたというからオドロキである。
 終戦の昭和20年、兵隊検査で帰札した私はグラマンの来襲を知らされた。外へ飛び出す
と青黒く塗ったF6Fが屋根スレスレに飛び去った。
 暫らくして腹にこたえる轟音と、軽川方面に黒煙が高く立ち昇っているのが望見された。
 製油所の終焉を告げる黒煙だったのだろう。
                         ◆
 手稲山千尺高地に青少年「錬成」の大施設を計画した私の卒業設計の夢は既に30数年前
に破れ、今では「手稲ランド」となって、「錬成」に程遠い「レジャー」施設として実現されている。