その48
(その1)「陸軍歩兵第25聯隊」の巻(1992.12.bR)
月寒は豊平区と白石区の境界沿いのほぼ中央にある高台状の地域で、昔は札幌からは
かなり遠くに離れた「月寒村」だった。現在ではその手前に「美園」地区があるが、当時はそ
んな地名すらなく、殆んど人家も見えない田園風景だった。
「月寒」は当時「月寒(つきさっぷ)」と呼ばれていたが、昭和19年(1944)に「軍」の横槍
で「つきさむ」と云う呼び名に統一された事は前にも書いた。
しかし、我々は「ツキサップ」の響きに限りない懐かしさを覚え、そうして「ツキサップ」と云え
ば、すぐ頭に浮んでくるのが「25聯隊」と「種羊場」で、「25聯隊」と「種羊場」とは、「ツキサッ
プ」の古地名と称しても良かろうと、今回は「25聯隊」のことを書くことにした。自衛隊では「連
隊」と書いているが、北海道「庁」も「廳」と書いていた時代だから、「聯」という旧漢字で進め
てゆくことにする。
◆
正式名称は「陸軍歩兵第25聯隊」だが、大正生れは別として昭和5年以降に生まれた人々
には、旧陸軍の機構が良く判からないと思われるので先ずそれから簡単に説明を始めること
にする。
(1)12人位で1個「分隊」をつくる。これが最小の戦斗単位で分隊長は伍長か軍曹。
(2)4個分隊で1個「小隊」(約50人)、小隊長は少尉が正規。
(3)4個小隊プラスAで1個「中隊」(約200人)。中隊長は中尉か大尉。
(4)歩兵2個中隊に重機関銃や大隊砲の特別中隊が加わって、これが1個大隊(約800人)
(5)2個大隊にプラスAで1個聯隊(約2000人)
(6)歩兵4個聯隊に、砲兵、工兵等の聯隊が加わって1個師団(約1万人)となり、師団長は
中将
これを図にすると下図のようになっていたのだ。
こう書いてくると、当時の旭川は「軍都」であったし、人口15万程の札幌市の郊外には、
2千人もの「兵隊さん」が居た事を知って頂けたと思う。
日本臣民たる者は20歳になると兵隊検査を受けなければな
らない。そうして合格したならば、本籍地の近くにある聯隊に入
れられる。
だから、札幌の若い衆は皆25聯隊に入れられたわけだ。
従って顔なじみも多く、大隊長以上のオエライさん方は士官
学校出の職業軍人が多かったが、中隊長以下は地元の連中
が殆んどで、「俺の小隊長は大学正門前にある沢田商店の兄
さんだ」と、云う具合に極めて連帯感の強いものだったらしい。
そうして、日曜日になると兵隊さん達は休日で一勢に札幌の
街へやってくる。子供等は「兵隊さん」が大好きだ。だから、兵
隊さん−25聯隊−月寒という連鎖は頭の中に固定されて、ま
だ行った事は無くても、「25聯隊=月寒」だったのだ。
今は無い市電の豊平終点で降りると、すぐ前には定鉄電車
の「豊平駅」が右手にあったが、この踏切を渡ると、木工場や
小さな製麺工場等があって、それから先は只々1本道が続く
だけ。
途中に高圧線が通っていたが(現在もある)、これをすぎる
とダラダラ坂が始まり、登りきった左側の奥に兵舎が並んでいた。そうしてその裏手は只
一面の草っ原で、茫漠たる練兵場だったのだ。街道の両側には「門前町」の様に商店が
連なり、名物の「月寒アンパン」屋もあったが、その延長はせいぜい1丁(100米)位のも
のだったように思われる。
街道を右に折れて暫く田舎道を行くと、正面に土手を築いた実弾射撃場があり、旧中学
5年生の時、軍人教練の一環として、
「三八式歩兵銃」で300米離れた標
的に実弾5発をブッ放ち、38点(満点
は50点)とった記憶はあっても、今で
はどのあたりだったのか皆目見当も
つかない市街化地域になってしまって
いる。
◆
25聯隊の歴史は古い。
設置されたのは明治32年のことだ。
明治37年には日露戦争に従軍して、
203高地を占領し、翌38年には奉天
の大会戦に参加し勝利を得た。昭和
に入ると旧満州国に駐屯したり、大陸
では徐州の会戦に参加したりしている
が、花々しいのはこれ位までだ。
当時の歩兵は「連隊旗」をひるがえし
て戦ったそうで、その為だろう、私が
「軍旗祭」で見た時の「連隊旗」は、布
地の部分は敵弾に打ち破られてホンノ僅かで、紫の房だけが残されている姿だった。
これから先は不運続きだ。昭和14年には「ノモンハン事件」に出動し、旧「ソ連」の戦車に
肉弾で体当たりして頑張ってはみたものの、コテンパンにやられ、家内の叔父も片腕を失っ
た。
その後、北辺の守りとして樺太は北緯50度、「日・ソ」国境の上敷香に駐留していたが、
昭和20年の8月には「ソ連軍」が越境進撃して来たので、これを迎撃中に終戦の詔勅が渙
発されたのだ。しかし野蛮な「ソ連軍」のことだ、東海岸の真岡にも進攻して来たので、これ
とドンパチやっている内に正式停戦となった。従って「軍旗奉焼」は8月18日のこととされて
いる。
昭和20年のことだから、昭和の年号と満年齢が同じな私の幼友達は、25聯隊の一員とし
て皆が樺太で終戦を迎えたことになる。
或る者は、真岡の戦場で重傷を負い入院中だったので、かろうじて帰国することができた。
或る者は脱走をくりかえし、民間人にまぎれて帰国して来た。
しかし何人かは捕虜としてシベリヤに送られ、そこで淋しく死んでいったのだ。
戦後、「25聯隊」関連の建物は「空家」となって残された。
此所に「進駐軍」が一時宿泊していた事を記憶している人は少ないと思う。
そうして、真駒内に「キャンプ・クローフォード」が完成すると彼等は全部引越して行ってしま
った。
再び「空家」になったが、海外からの「引揚者住宅」として再利用されることになり暫くは続
いたので、これを記憶している人はかなり居る筈だ。
「北部軍司令部」が築造した、一噸爆弾の直撃にも耐え得るRCの巨大な建物こそかなり
後まで残っていたが、これもすっかり撤去されてしまった。
だから、月寒(つきさっぷ)の往時を偲べば、
「夏草や
兵(つわもの)どもが
夢の跡」なのだ。