その47
         「八十八ヶ所」の巻(1992. 8.bQ)

 「八十八ヶ所」と云えば「円山」のことであったし、「三十三ヶ所」と云えば「藻岩山」のこと
だったが、今時の若い者には、「八十八ヶ所」とか「三十三ヶ所」と云っても、どうもピンとこ
ないらしい。
 しかし、昭和20年以前で、札幌市の人口もせいぜい20万人位の時代には、「今日は、
三十三ヶ所に登って来た」と云えば、そのまま通用するレッキとした「山名」だったのだ。
 そこで、今回は「古地名」では無いが、すでに死語化に近い「八十八ヶ所」と「三十三ヶ所」
について述べてみたい。
 述べる前に、「三十三ヶ所」とは「藻岩山」のことだ、と、書いたが、「藻岩山」は昔から「モ
イワ」と呼ばれていたのではなくアイヌはこれを「インカルシぺ」と呼んでいたことを知ってお
いていただきたい。
 そうして、「円山」こそが「モイワ」だったのだ。
 だから、モイワ→円山。インカルシペ→モイワ(藻岩)という具合に、「モイワ」と呼ばれてい
た山名が「円山」に変わり、和人には発音しにくい「インカルシペ」が「モイワ」に変えられて
しまった歴史があるので、順序としては、「モイワ」が「円山」に変った時代から話を進めてゆ
くことにする。
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  モイワ→円山
 札幌本府の近郊農産地として明治3年に、「庚午三の村」が開村されたが、翌4年には「円
山村」と改称されてしまった。これは開拓使の岩村判官(御用火事で有名)の鶴の一声で変
更されたことで、この時「モイワ」も一緒に「円山」に変えられてしまった。と、されているがこ
れはあやしい。型から云っても右には「三角山」があり、左手にはお椀を伏せた様な小山が
あるので、これを当時の人々は素直に「円山」と呼んでいたのだと思われる。
 「モイワ」とはアイヌ語で、「モ」・小さな。「イワ」・岩山。のことだから頂山附近に岩石が露頭
している山容は正に「モ・イワ」そのものだ。だから「モイワ」という名称の小山は道内各処に
点在しているわけだ。
 ところで、「円山」の登山道は大正3年(1914)に造られたもので、この時、四国の霊場
「八十八ヶ所」にちなんで、八十八体の観音像が登山口から頂上までの間に建てられ、登山
口には弘法大師にちなんで「大師堂」も建てられた。
 この大師堂は現在もそのままの位置に現存するが、私の子供時代のものは、まだ昔のまま
だったから、お灯明がゆらめく、薄暗く陰気で、極めてチッポケなものであった。
 陰気な雰囲気だったのは、北側の山裾であるばかりではなく、珍しく杉の林が前面に聳えて
いるからだ。
 この杉の群は我が国における「北限界」とは聞いていたが、どうしてこの様なところに?とい
う疑問があったので今回調べを進めてゆくうちに、いろいろと知らなかった事柄が判明したの
で、ご披露しておきたい。
・円山育樹園(養樹園とも云う)
 明治13年、開拓使は育樹園(苗木の育生場)を設置したが、それ以前の明治8年頃から、
すでにヨコシベツ川(登山口のそばを流れる小川)添いに、杉・桧・ヒバの植樹が行なわれて
いた、とあるから、100年を経た現在、杉だけは見事に生長しているものらしい。
・裏参道
 明治16年、小樽街道(円山小の東側道路)から分岐して育樹園に至る道路として開された
もので、当初は両側に赤松とアカシヤを交互に植えて、「松並木通り」とも呼ばれていたそう
だが、昭和5年頃すべて枯死してしまったという。しかしそう云われてみると、「坂下グランド」
の近くにある数本の巨木は、その名残りなのかもしれない。しかし、大正中期までは、現在の
「坂下グランド」や「動物園」のあたりは一面の赤松林で、「松茸」もとれたそうだが、害虫の為
一勢に枯死してしまったとされているので、案外その「生き残り」であるのかもしれない。
・陸上競技場
 野球場とともに「綜合グランド」の一環として、昭和8年に着工。翌9年竣工したもの。「育樹
園」時代には杉の苗木の育生園。その後は野菜やお花の採取場だったそうだ。
・野球場・庭球場
 一面の野菜畠や園芸作物の農場だったそうだ。そうして昭和27年に「動物園」が開園して、
「円山」周辺の整備はほぼ現況と同じ様に変貌してきたわけだ。
 ともあれ、アイヌが呼んだ「モイワ」は「円山」と改称されても標高226米、直径1000米で、
山火事にもあうことなく、大都市の近郊に原始林として残されている例としては世界にも珍しい
ので、大正10年に「天然記念物」に指定され、今日に至っている。
                        ◆
 インカルシペ→藻岩山
 「インカルシペ」こそいい迷惑だ。レッキとした名前を「モイワ」と何時の間にすり変えられ、あ
まつさえ「藻岩」という「和名」を押しつけられてしまったからだ。
 それでは「インカルシペ」は、どうなってしまったのか?
 実は心配することはない。「インカルシペ」とはアイヌ語で、「いつもそこへ登って、敵を見張っ
たり、物見をしたり、行き先きの見当をつけたりする所」という意味で、この山名も「モイワ」(小
さな岩山)と同じ様に道内各処に散在している。
 例えば「遠軽」という地名はこれからきている。JRで遠軽の駅に近づくと、車窓の間近に、高
さ80米もある巨大な岩山があらわれる。誰しもが、あそこに登ると、さぞ見晴らしが良かろうと
考えるが、当時のアイヌ達にも、やはり此処が「インカルシペ」だったのだ。これから「遠軽」の
地名が生まれたわけで、土地ではこの絶壁を「瞰望岩」と呼んでいるが、アイヌ語の意味を体
したなかなかに良いネーミングと云えよう。
 さて、円山に登山道のつけられたのは大正3年(1941)だが藻岩はそれよりも早い明治18
年(1886)の事だった。アイヌにとっては「見張り場」であったからには細々としてでも山道が
あったに違いなく、恐らくはこれを拡巾整備したものと思われる。
 この時、「三十三体」の観音像はまだ設置されていない。しかし、2年後の明治20年には、
「北海道新四国三十三番観音」の像が設置され、頂上には石造の「奥の院」も建設されている
から、藻岩の「三十三ヶ所」は円山の「八十八ヶ所」の先輩格に当るわけだ。
 ともあれ、円山は標高226米に「八十八石像」、従って像と像との間隔も狭く、番号を追いな
がらの登山は、小学生の足でも楽々だったが、藻岩はそうはいかなかった。何しろ標高531米
で石像は三十三体。像の間隔も長い。だから藻岩登山は1日仕事だった。
 藻岩山も南面と北面の一部(地崎バラ園のあたり)は開拓当初の山火事にやられているが、
それ以外は殆ど原始の姿を残しているので、円山と同じ様に大正10年には「天然記念物」に
指定されている。
 ところが昭和21年、進駐して来た米軍がこの天然記念物の原始林を電光形に伐採して、北
斜面にゲレンデを造成し、あまつさえ木造ではあったがスキーリフトまでつけてしまった。
 思えば無茶な話で、米軍が居なくなり、リフトが撤去されても、電光形の伐採跡は暫くは醜く
残されていた。
 そうして緑も徐々に回復し始めると、昭和32、3年頃から、今度は観光道路の開や「ロープ
ウェイ」の建設が開始された。「インカルシペ」はいつまでも不遇のようだ。
 昭和10年代には、丸井デパート(先代)のテッペンに「航空灯台」というのが取り付けられて
いて、その光芒は高層建築の無い札幌市の上空をいつもクルクルと回り、それが黒々とした藻
岩山と円山の中腹を舐める様に通りすぎてゆく風情は、今や懐かしい思い出となってしまった。
 最後に一つだけ疑問が残っている。それは今、生きていると100歳をとうに越えている伯父
が、北大の学生時代と、云うから明治も末期の頃となるが、或る冬の寒い夜中に、一大轟音
とともに隕石が藻岩山に落下し、札幌中が驚いて飛び起きたことがあった。と、話していたこと
だ。
 しかしこの事は、公式な記録には全然現れてこない。
 だから、時ならぬ閃光と雷鳴に、皆が叩き起こされた時、誰とも無く云い出したデマでは無か
ろうか、とも思うが、伯父は私もタヂタヂのインテリで、物事はすべて冷静かつ科学的に分析
する性格だったから、デマをに受ける様なことは決してある筈がない。
 「インカルシペ」はアイヌにとっては「神山」でもあったらしいから、この様なミステリーが一つ
ぐらい残されていてもこれはこれで良かろう。