その45
「小林峠」の巻(1991.12.bR)
昔の札幌は円山と藻岩山の連らなり以外は、おおむね平坦な街だったが、そ
れでも「札幌ッ子」は2つの峠を知っていた。「幌見峠」と今回のメインテー
マの「小林峠」だが、随分前にさる愛読者?から「小林峠」について書いてほ
しいとの御要望があった事を思い出したからだ。
そもそも「峠」という文字は和製の漢字で、「裃」等と同じように、漢字に
做って日本人の作ったものだが、山越えの道路のテッペンの事だから、なかな
かうまく作ったものだと思う。
さて、「幌見峠」だが、この地名は今でもイキているので「古地名」には入
らないが、後者は殆んど知る人も少なくなってきたので、一応は「古地名」と
して良かろう。そこで「小林峠」に入る前に「幌見峠」については一寸だけ述
べておこう。
幌見峠
この峠は円山の裏手から盤渓に通じる山道のテッペンだが、60年も前の小
学生時代の我々には夏はハイキング、冬はスキーの絶好のコースだったのだ。
先づ南大通の突き当りにあった市電の「円山終点」をスタートして「坂下グ
ランド」を過ぎ、ややダラダラの坂道に差し掛ると左手は杉林。円山の登山口
の「お堂」があって、「円山川」が流れていた。現在では間もなく「動物園」
の正門にぶつかるが、その頃の山路は「円山川」に添って動物園の中をウネウ
ネと続くのだった。そうして現在の動物園の境界あたりから、やや平地となっ
てくると、ポツンと「子供の家」というのが建っていた。北海タイムス(現道
新)が小学生だけの為に建てたスキーロッジで、中学生や大人は勿論利用禁止。
いつもダルマストーブが赤々と燃え、昼飯のお握りを喰ったり、濡れた手袋を
乾かすのには絶好の「憩いの場」だったのだ。
これをさらに南に進むと、今では「藻岩山麓線」が直角に左折するあたりに
なった。
それからは現道とあまり変りはないが、それでも民家が建て込んできて、行
き止まりになっている部分もあり、いつしか七曲りの山道を登り切ったテッペ
ンが「幌見峠」だが、札幌が一望できるのでその名が付けられたと、聞いてい
る。しかしこれは小学生時代からオカシイと思っていた。藻岩と円山が邪魔に
なって良く見えなかった筈なのでつい先日も行って見たがやはりそうだったの
で秩父宮様が名付けられたという話は信用していない。
峠を下ると盤渓となる。盤渓の山奥には今でも「日蓮宗」のお寺さんがある。
このお寺さんのまだ山奥には「お籠り堂」があったそうで、札幌市内の熱心な
信者の巡礼道が、「幌見峠」ではなかったのでは、と、いうのが老いた住職の
話だった。それにしても、当時の小学生は盤渓川に添ってやや下り、盤渓小学
校(現在も位置は同じ)を右折して山を越え、「宮の森ガーデン」附近から電
車の終点に戻っていたわけで、相当な「頑張リヤ」が揃っていたことになるが、
実はこれが当り前で、ついて来れないような弱虫は皆から相手にされなかった
時代でもあったのだ。
小林峠
小林峠は幌見峠と密接な関係がある。
幌見峠を下ると、山道は広い立派な道路に突き当る。この部分はT字型の交
差点で道路は左右に別れているが、「主要道道西野真駒内清田線」と命名され
ている。
この道路はオリンピックの際に
拡巾整備されたもので、それ迄は
馬車が1台通れる程度の荒れた山
道で、スバル360で走ると、時
々覆いかぶさってきた熊笹が、両
サイドの窓ガラスに音をたてて、
ぶつかってくる様な状態だったの
だ。
T字路を右折するとこの山道は
盤渓川に添って手稲福井に出る。
勿論「プレイ盤渓」等のレジャー
施設は皆無だったので、熊笹のト
ンネルを通り過ぎて「五天山」−
現在では砕石採取で山容は著しく
変貌してしまったが−附近迄来る
とヤット、ホッとしたことが何回
もあった。そうしてこの山道の丁
度中間地点から右に分岐する小道
があって橋を渡り、手堀りのトン
ネル(小別沢トンネル)をくぐり
抜けると「聖心女子学院」附近に
出るのだったが、これらは何れも
整備されてしまって昔を偲ぶよす
がもなく、福井から移住して来た
開拓農民が札幌都心と結ぶ為に
「開さく」したものやら、アイヌ
時代からあった「ケモノ道」の発
達したものやら、文献をあさって
いない現在の私には一切が不明で
ある。
◇
さて、T字路を左折すると、道は大きく迂回しながらかなりの急勾配を登り始める。
一方、昭和30年代のかなり前半の事だが、当時「藻岩小学校」−現在も同じ
位置にある−に給食用のボイラーを初めて取り付ける為に監督かたがた見学に行
った事がある。藻岩高校も無ければ、側を走る立派な道路も無かった頃だから、
「八垂別」と称し民家の点在した部落を褌の様に続く旧道をオートバイで走って
行ったわけで、その時、校長先生から「北の沢」添いに盤渓に出る山道があるこ
とを聞かされたのだ。かなりの「オトキチ」だった私は帰路は相当な回り道には
なるが、とにかくも探険することにしたのだった。
天気が良くて幸だったが、実はこの探険はむしろ冒険に近かった。何しろ「案
内板」等は全然無いのだから、どの道を登って行けば良いのやら皆目見当もつか
ない。時々バイクをおり、エンジンを吹かしながら押し歩きを続けたりして、や
っと山頂にたどりついた時には疲れも何もブッ飛んでしまったのだ。
真駒内方面から恵庭岳へかけての眺望は天下の絶景で、「幌見峠」などは遠く
足もとにも及ばないと感じたのだった。
この時。其所には薄ぼけてはいたが肉太に「小林峠」と読める木杭が建ってい
た記憶がある。だから札幌に「小林峠」ありと知ったのは、もう30年以上昔の
事となるわけだ。下りは比較的楽で大曲りしながら暫くゆくと冒頭の道路に合流
した。
現在、真駒内から「五輪橋」を渡り真直に北の沢を登ってゆくと、家並みの絶
えるあたりから曲りくねったかなりの急勾配の山道となる。山腹を縫うように登
りつめると展望台となったパーキングエリヤがあって、このあたりが「小林峠」
であるが、広滑な舗装道路は絶好のドライブコースとなって30余年前に私の冒
険心から辿った荒れ果てた山道はどこにどう消え失せたものやら感傷にふけるい
とまもなく車の窓外を飛び去って行ってしまうのだ。
かくして、展望所のあることを知っていても「小林峠」は忘れ去られ、この部
分が中央区と南区の境界であることを知る人はあっても、旧琴似村と藻岩村との
村界であった事を知る人は殆んど居ない筈だ。
最後に「小林峠」の由来だが、これはどうも調べようがない。只、このあたり
に住んでいた「小林某氏」の名にちなむとされてはいるが確固とした根拠は無い
ようだ。今でも残っている荒井さんの山だから「荒井山」。寺口さんが麓を耕し
ていたから「寺口山」の類だとしても、明治の初期、こんな山奥にどうして道が
つけられていたのだろう。しかし、「盤渓」はアイヌ語の「パンケ○○」−(下
手の○○)−から来ている事は確かだし、これと対となって「ペンケ○○」−
(上手の○○)−もあった筈だがこの地名は消え失せてしまってはいても、アイ
ヌ時代には彼等がこのあたりを狩猟などに跋渉していたであろうことは十分に推
察できる。どうもヒントはこのあたりにありそうなのだ。