その43
「鉄 北」の巻(4)最終回(1991. 4.bP)
知識人は「テッホク」と云い、子供や平民は「テッポク」と呼んだ「鉄北地域」は、札幌市内
で生れ育った私にとっては、札幌ッ子である前に「鉄北子」であることの意識のほうがむし
ろ強い。これは、私は「山鼻育ちです」という人々の心情とも共通した一種の感慨とでもい
うものだろう。
「鉄北」なる地名を使う人は殆んど居なくなった様だ。従って「鉄北」は「古地名」に限りなく
近づいている現況とも云えよう。
しかし、「鉄北」はある期間にはレッキとした、それも由緒正しい地名の一つだったのだ。
これを述べるに先だち「ほかさま」の事から始めたので、ついつい回を重ねる結果となって
しまったのだが、いよいよ今回が本論となるわけだ。
そもそも「鉄北」とは鉄道線路の北側一帯を指した地
名だったのだ。何時も云うことだが時代は昭和の一ケ
タ、札幌市民も20万そこそこで、南風の強い夜には、
時計台の鐘の音や、「サッポローサッポロー」と駅から
のスピーカーの響きが枕もとにまで届いた頃の話だか
ら、「鉄北」で人の住んでいた地域には、おのずから限
界があった様に思われる。
そこで、今回も「札幌原人」の生き残りとのインタビュー
から始めることにした。
・58歳の男性(北10西3)
私は北10条西3丁目で生れました。このあたりは昔の
「札幌中学校」(一中−現南高)があった跡だそうで、南
へ移転して行ってから、北大の「大学村」になったところ
だそうです。ですから筋向いが総長だった「今先生」のお
宅。まわり近所はすべて「教授」とか「薬局長」とか北大関係者ばかりで実は私の祖父も
事務長だったそうです。今でも太黒病院がありますが、先代が北大医学部の教授時代の
邸宅は、やはり今の場処だったのです。
勿論、此処は「鉄北」です。しかし云われてみると近頃は「鉄北」と云う名称は聞きません
ね。そういえば一頃市役所の出張所で「鉄西」とか「鉄東」というものもあったようですが、
あれは地名ではありません。
・62歳の男性(北15西4)
実は私は札幌生れではありません。終戦後此処(北15西4)へ引越して来たんですが、
「鉄北」とは知りませんね。此処は「幌北」じゃないんですか?。
※どうも「原人族」でなければ話が合わないので、早速失礼してもう少し北へ向うことに
した。
・70歳の女性(北16西6)
此処は北16条西6丁目ですが昔から「鉄北」でしたよ。しかし民家もこのあたりから次第
にまばらになってきましたね。私の家の裏からは北大の構内です。ですからこの附近には
大学関係者が多く、今でもお庭にライラックの大木があったり、立派なツツジ等のあるお宅
はね、昔からそこに住んでいる証拠なんですよ。
・75歳の男性(北区麻生)
此処は「麻生」。鉄北と新琴似の中間と云ったところだったね。周囲には何にも無くて、只
「製麻会社」の工場がポツと一つあっただけ。まわりに何も無かった。と、云っても民家は無
かったが、一面の麻畠だったんだ。
終戦後はナイロンに押されて天下の製麻会社もだめになって、この麻畠も「団地」になる
ことになった。そこで地名を付けることになったが麻畠の跡地だから「麻生」に決まった。
そこでワシ等はこれを「アソウ」と呼ぶことにした。「麻生」と書いて「アソウ」と読むのはワシ
等の常識だ。君だってイイ年をしているんだから、これ位の常識はあるだろう。(アルアル)
ところがダ、団地が出来上ると「学」の無い連中がワンサとやって来て、ヤレ「アサフ」だ
の「アザフ」だの「アザブ」だなどと自分勝手に、言い出した。ワシ等が「ソレはおかしいアソ
ウだ」と怒っても多勢に無勢、却って「ソンナ読み方、間違いだヨ、聞いたことも無い」と一笑
に附されてどうしようもない。あきらめたネ。ところが馬鹿者ばかりだから何時までたっても、
「アサフ」だ「アサブ」だ「アザブ」だとキリがない。
そこで市役所が仲に立って「アサブ」に決めたんだが、市役所もいらないことをしてくれた
もんだナ。学のあるヤツが居なかったのかネ。とにかく「アソウ」が本当だ。君もソウ思わな
いかネ。
※話は横にそれて行ったが、それなりにいい勉強にはなった。そこで南へ戻ることにした。
・69歳の女性(北10東1)
親の代から「石狩街道」に面した此処に住んでいますが、此処は「鉄北」です。アラ近頃は
そう云わないのですか。
「石狩街道」も近頃は自動車ばかりで1番奥の部屋に寝ていても枕に地響きが伝わって
来ます。住みにくくなりましたネ。
そう云えば、あなた方が塀ぎわに弟と植えたあのポプラですが、どれもこれもスッカリ大木
になってしまって(60年近くも前の話だ)、お隣の土地も人手に渡ってビルを建てるのに邪
魔になると云われましてネ、知合いに頼んだらとても手に負えないとかで、専門家さんに頼
むことにしましたが、クレーン車まで繰り出して来て、ソリャ大変な出費でした。弟は少年時
代の思い出がまた一つ消えて行ったと残念がっていましたが、今では「石狩街道」の昔を偲
ばすものは殆んど無くなりました。
両親や姉達は、家の中から「街道」越しに一中(前述)の「雪戦会」がよく見えた等と申し
ておりました。今ではもう無くなりましたが向い側の創成川を背中にした商店街が全盛の頃
が私の小学生時代で、トロッコを引いたガソリンカーが、日に何回か茨戸に往復していたの
です。そうそう秋口は新琴似から大根を満載した馬車のメインストリートでしたネ。
※彼女はかたくなに、現在でも貯炭式の「カマダストーブ」を燃やしていた。
・58歳の女性(北9東5)
今では鉄筋になっていますが、昔はこのあたりは鉄道村で、木造の官舎が沢山並んでい
ました。そこで私は生れ育ったのですが物心のついた頃から此処は「鉄北」でしたよ。
・65歳の女性(北13東7)
アラ、私の生れたのは「鉄北」ではなくて「元村」と云っていましたヨ。小学校は「北光」で
したが、「元村」でしたネ、私の生れた所は、この通りも今では立派な道路になっていまが、
昔は只ッ広い田舎道で西側には下水が流れていたのです。それで玄関に入るにはどの家
も小さな橋を渡って、という具合になっていました。縁側からは手稲山まで何も無い野ッ原、
冬の猛烈な吹雪はちょっと札幌の人には見当もつかないヒドサでしたヨ。
◆
ここで「真打」登場。
・65歳の男性(北8西5)
実は私のことだ。今は無い「岡橋」の北7条から大学正門前迄の両側は商店街だったが、
今その名残を止どめているのは「宮沢」の金物屋、「坪田商店」と古本の「南陽堂」、それと
「沢田商店」ぐらいのものだろう。
「岡橋」の半ばあたりに赤チョーチン
がブラさがり赤いガラスの入った「鉄北
ぜんざい」があった。これが「鉄北」を
意識した最初だったように思はれる。
隣は喫茶店の「渚」。画家宇野真美さ
んがやっていた眼鏡の「一貫堂」、「越
野精肉店」や剥製屋、そうして角の果
物「川崎屋」のニイチャンが試作して大
当たりしたのが、大学正門の近くだか
ら「大学芋」。「沢田」の北隣は支那料
理の「竹屋」で大久クンの家だった。
ラーメンはよく出前をしてもらったものだ
が家庭用は20銭、お客様用の「五目
ラーメン」にはナマコ等も入っていて豪
華、これが50銭だったが、「もり、かけ」
5銭時代の事だからかなり高級なもの
だったのだろう。
「札幌ラーメン」のルーツを探ねてい
る方々よ、私以外にも詳しい人がまだ
残っている筈だ。
それにしても「金門堂」、「大森歯医
者」、「よしや」に「亀山商会」すべて
消えうせた現在、私には「故郷喪失」
の感、一しお深いものがあるのだ。
※「図」はアンケートにもとづいた当
時の「鉄北」である。
・読者から、いろいろご指導がありまし
たが、「中島」で説明のあった旧市立高女の敷地は現在のパークホテルと同一ではありませんでした。本人に確かめたところ、南側には大きな「料亭」があったそうです。