その40
「鉄 北」の巻(1)(1990. 4.bP)
明治の初期、開拓使は札幌も本府と定め、1里四方の都市計画に着手した。1里四方とは
4粁四方だが、南北は南20条から北20条迄、また東西は西20丁目から東は豊平川を渡っ
た豊平方面と考えて良かろう。
私の子供時代。即ち昭和一ケタ時代は人口は20万に満たず、従って1里四方にも建物が
貼りついてはいない極めて小ジンマリとした「札幌」だった。だから「お住まいは」と尋ねられ
ても「ドコソコです」と答えれば、たちどころに「アノヘン」だなということが、わかってもらえた
ものだ。
ところが最近では、
「お住まいは」
「西区です」
「西区のどのへんですか」
「西野です」
「西野も二股の方ですか」
「いや、西野第2です」
これでやっと了解してもらえた。相手は西野も奥の方で、手稲
山麓に迫ったあたりだな、と、納得したのだ。事程左様に札幌も
馬鹿デカクなって、1里四方の4倍、2里四方もある大都会に生
長し、人口も160万も越えてしまった。
そこで今回は、札幌生まれの、札幌育ち、即ち「札幌原人」の
同族にインタビューして、忘れられた古地名も探ねることにした。
簡単な図面を添えたので参考にしながら読み進めていただきた
い。
〈都心部〉75歳の男性
私の生まれたのは「西創成小学校」の裏手で、家業は「柾屋」
でした。今、札幌には「柾屋」はもう無いでしょうね。大体「柾」を
知らない若者が多くなって残念です。小学校へは着物でかよっ
ていた時代ですから随分昔の話になりますが、当時の「都心部」
と云えば
南は薄野あたり(南4条)、
北は北大の正門ぐらいまでかな(北8条)、
西はせいぜい「石山通り」(西11丁目)、
東は「浦河通り」(東2丁目)。
まあ、そんなところだったように思いますね。
〈偕楽園〉64歳の女性
偕楽園という地名は、まだイキテいると思いますよ。「清華亭」を囲んだ狭い地域で、北は
今の「クラーク会館」あたりが北大の林檎園。南は鉄道線路で、その向こう側が伊藤さんの
大きなお屋敷。
何となく窪んだ地形ですが、その昔には大きなメム(湧池)で、孵化場もあったそうですし、
偕楽園においでになった明治天皇が、アイヌの踊りをご覧になったこともあったそうですか
ら、なかなかの由緒ある地名だと思います。
それにしても、国鉄の高架には参りました。只でさえ狭苦しい地域が、ますます窮屈に感
じられる、今日この頃です。
〈桑園〉76歳の男性
親父が桑園の駅長をしていたので桑園の事なら良く知っています。
「桑園」という地名は、まだイキテいると思いますが、只「桑園」だけでは家が建て混んでし
まって、もう少し詳しく説明もしなければ理解してもらえなくなりました。桑園と称した地域は。
北の方角は駅裏一帯ですが、北大でドンヅまりです。まあ競馬場や、屠殺場のあたりが
北の果てでしょう。
南は、北5条を走っていた市電の線路かな。
東は石山通りを北上して「魔の踏切」にいたるライン。
西は札樽国道。
このようにかなり広い面積でしたが、今と違って人家が建っている区域は限られていたの
で、「住まいは桑園です」で十分に通じたのでした。
「桑園」という地名は、開拓使が養蚕を奨励した当初、このあたりは一面の桑畠だったから
だそうですが、昭和一ケタ時代には桑の木等は1本もなく、駅の傍には大きな沼があって、
夏には食用蛙が牛の様な声で鳴きたてたり、お花見やスキーには駅横の官舎から斜に円
山まで行けた、都市部からみると、全くの郊外でした。
〈琴似〉69歳の女性
札樽国道を小樽に向かい、暫く行くと今でも「琴似川」が流れていますが、これから先は
〈琴似〉でした。それからもっと進んで「発寒川」を渡ると、その先は〈発寒〉です。
〈琴似〉は広い村でしたから、「八軒」・「十二軒」・「二十四軒」等に分かれ、今「プレイ・バ
ンケイ」になっているあたりも〈盤渓〉で〈琴似〉の一部でした。当時は「札幌郡琴似村」でし
たし、円山と琴似の間は札樽国道の両側は殆ど田圃、今、〈山の手〉と云っているあたりは、
一面の林檎園で、私には「札幌生まれ」という気持ちは、今でもありません。