その4  
     「烈々布」の巻(1978.4. bP)           

 この稿も「魔の踏切」から南へ南へ「花魁淵」へて「定山渓」迄、筆が及んだので北へ戻ること
にした。 東西南北が碁盤の目の様に区切られた札幌市街の、東西の分岐線は御存知の「創
成川」だ。「創成川」といえば真先にどうもわからない事が出てくる。
 そもそも「創成川」の水源は「豊平川」で、旧札幌一中(現南高)の下手の水門から始まること
は誰でも知ってはいるが、ここからは「創成川」が始まるのではなくて、「鴨鴨川」が始まる。
「鴨鴨川」は旧招魂社(現護国神社)の前を流れ、駅前通りをクロスして、ローヤルホテルの南
側でほぼ直角に曲って、あとは一直線に北上する。 そこで疑問が2つ出てくる次第だ。
(1)どうして「鴨鴨川」という変テコな名前がついたのか?
 ある物づきが、日本中の河川名を虱つぶしに調べたが同名の河川は1つもなかったということ
だ。
(2)「鴨鴨川」の終点はどこか?又、「創成川」の始まりはどこからか?
 或る人はいう。「鴨鴨川」は南7条あたりに架かっている駅前通りの橋までだ、と。又或る人は
いう、ローヤルホテルの南側に「セントハリストス教会」があったが、あそこに架かっていた橋迄
だ、と。いずれにしろ「鴨鴨川」の終点がわからないので「創成川」の出発点も不明だ。こうしてみ
ると昭和53年の現在でも「札幌7不思議」のネタは結構ころがっているようだ。
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 さて、「創成川」はその昔、石狩方面からの物資輸送の為掘さくされた人工の運河で、「大友
掘り」と称されていたことは、これまた御承知のとおり。
 この「大友掘り」が現在の「創成川」に変身するまでには、いろいろな歴史もあるが、これは専
門書にまかせることとして、この運河の変っているのは「パナマ運河」の方式をとっていたことだ。
何しろ茨戸から札幌市内までは相当な高低差がある。だから水の流れもかなり早いことになる。
荷物を満載した小舟が、この早い流れに逆って行くことは極めて難儀なことだ。そこで所々に「水
門」を作った。小舟が「水門」を通り過ぎると「水門」を閉じてしまう。勿論水は下へ流れていかない
から水位が上り、流速もおだやかになる。その頃合いを見はからって次の水門まで漕ぎ上る。水
門を過ぎると又この水門を閉じる。この様に階段を1歩1歩上る様に遡上してきて、今の「二条市
場」の付近には石畳の斜になった「舟つき場」があったという。 石狩街道を茨戸に向う時は、札
沼線の陸橋を越えてから左手の「創成川」をづっと眺めて行ってほしい。必ず−(−型に湾曲した
部分が目につくことだろう。すべて「水門跡」である。
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 ところで「石狩街道」だが、これは札幌側と茨戸側の両方から作りだしたという。何しろ植物園
の中よりもひどいジャングル状態だから測量技術もチャチな当時は札幌側は磁石の針に従って
北へ北へと進み、茨戸側は「藻岩山」の頂上を目標に南へ南へと進んだそうで、はからずもドッ
キングしたのが、札沼線の陸橋の手前、「中央バス」の車庫のあたりだった。何ともおおらかな
話である。 この「石狩街道」を小さなガソリンカーがトロッコを長々と引っ張って、のんびりと走っ
ていた風情も私の小学校2年生位迄であった。
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「石狩街道」の北24条あたりから東北にかけての一帯を「烈々布」と呼んだ。レッレップとはいか
にもアイヌ語くさいがアイヌ語ではないという。フレップというアイヌ名の高山植物もあるが、関係
はないらしい。とにかく茫々たる牧草地と背の高いデントコーン(牛馬飼料用トーキビ)畠だけで、
所々に疎林が残っていた。この疎林の名残は大学村付近にその痕跡を止どめている。このレッレ
ップという名称も今や「栄町」と、何の情緒もない名称に変ってしまい、街の真只中になってしまっ
た。「烈々布街道」は「丘珠空港通」と変り、「烈々布小学校」も「栄小学校」となってしまった。
 丘珠空港を御利用のむきは、左側を注意して頂きたい。小さな神社の前面道路ぶちの、似付か
わない程大きな石碑に御注目あれ。「烈々布神社」である。
「烈々布神社」よ頑張ってくれ、君が「栄神社」となる日を私は迎えたくはない。