その39
「一中前」の巻(1989.12.bR)
大正7年(1918)、というと私の生れる7年も前の昔の事だが、開道
50周年を記念して、中島公園で「大博覧会」が開催された。
この時、初めて札幌市内に電車が開通した。そうして路線は次の3区間で
料金は片道6銭だった。
(1)南1条線(南1西15−南1東3)
(2)南4条線(南4西3−南4東3)
(3)停公線(札幌駅−中島公園)
(3)の停公線がこの大博覧会に押し寄せてくる地方からの見物客をサバイ
タのだった。
それ以降、路線は延びる一方で、開通
してから10年たった、昭和初期には
〈第1図〉のように発展したのだった。
この中で目を引くのは、昭和2年に新
設された「鉄北線」が「5丁目踏切−
北18条」間をピストン運行していた
ことだ。
「陸橋」の竣工が昭和7年の秋、私
の小学校1年生の秋だったから、ピス
トン運行も止むを得ないことだった。
そうして北10西4には「車庫」もあ
ったのだが、都市化の波に押し流され
て、その痕跡すら見出すことは出来な
くなってしまっている。
また、平成元年の今年、国鉄の高架
に伴って、この「陸橋」も解体されて
しまったことは、旧に復したわけでは
あるがうたた旧懐の念に耐えないもの
がある。
それはさておき、こんどは〈第2図〉
をご覧いただきたい。「市電」の全盛
時代で、桑園・苗穂・豊平・中島公園
と、路線がどんどん延長されていった
様子がよくわかるだろう。
ここで、もう1度〈第1図〉に目を
転じていただきたい。
北5条線の中間に「庁立高女通」と
いう電停がある。庁立高女は「北高」
となって北へ移転し、そのあとは「陵
雲中学」となってしまったが、古い石造の庁立高女正門だけはまだ残っている。
そうして終点は「二中前」だが、二中変じて「西高」にとなり「なまこ山」の
ふもとに移転して、跡地は「札幌女子高校」や「西本願寺別院」と変じてしま
った。とにかく当時の「二中」附近は札幌でも西のはてで、三角山の麓まで一
面の畠地だったのだから、市電は「二中生」にとって貴重な足であったに違い
ない。
次に「中島公園」の一つ手
前の電停が「市立高女前」だ。
市立高女は「東高」となって移
転し、そのあとは暫くの間「中
島中学」だったが、これも「山鼻
官舎前」に引越して、跡地は
「パークホテル」になってしま
った。
円山線の中間には師範学校が
あったが、今の「札幌逓信病院」
や「札幌医大」がある一帯だ。
(第1図)
これが南23条に引越した。
(第2図)名称も「学芸大学」か
ら「教育大学」に変り、こんどは
遠く「あいの里」に移って跡に残
った広大な敷地には、市街地再開
発の槌音が高く響き始めると−す
ぐ建設公害だと騒がれるので、静
かに始められている。
最後に残ったのが、山鼻線の終
点「一中前」だ。
一中は名称が「南高」に変った
が、移転はしなかった。オンボロ
の木造校舎こそRCとはなったも
のの、現在も健在だ。
さて、私が一中へ通学しだした
のは昭和13年の春からで、その頃でさえ南17条の一中は、当時の札幌市では南のはずれだった。
「西線」も走ってはいたものの、「単線」で、レールの間にはペンペン草がのびてい
る様な風情だった。幌平橋もオンボロの木橋で腐れ落ちた床板からは遡上する「アキ
アジ」の姿を見下すことができたのだ。幌平橋を渡り切ると一面の林檎畠で遠い丘の
上の、ロマンチックな赤屋根が「静療院」−当時の「キチガイ病院」だった。
そうして今の南19条通りからは桑畠で、南22条以南は一面の「ホップ園」でも
あった。
だから「一中前」−「札幌の南の果て」−「軍艦岬」までズーッと畠−という風景
が自然に浮んでくるのは、本能的である。
今、「一中前」と云ってもピンとくる人は残り少ないことだろう。
とにかく街のド真中になってしまったのだから。
しかし、札幌一中が札幌南高と変ろうと、校舎は厳然として健在だ。だから「南高
前」でいいではないか。それが現在では「静修学園前」に変ってしまっているのだ。
静修の生徒さんや、卒業生には悪いのだが、どうも釈然としないのは一中卒業の私だ
けのヒガミなのだろうか。
※図は「さっぽろ文庫」より。