その38
「あまだれ小路」の巻(1989. 9.bQ)
いつも述べる事だが、私の小学生時代、即ち昭和の一ケタ頃は札幌の人口は20万足
らず、極めてノンビリした風情がただよっていて、「物売り」の声がよく流れてきたものだ。
冬のまだ薄暗い早朝、床の中に聞こえてくるのは、声変わりしていない小学生の、もの
悲しく聞こえてくる「納豆売り」の声だった。
雪どけ頃になると、天秤棒をギシギシいわせながら通り過ぎる「金魚屋サン」の声。
そして、ノンビリとした「傘の 張り替え直し」。時々太鼓を鳴らしながら「足駄の歯入れ」。
ピーピーと蒸気で笛を鳴らしながら車を曳いて行くのが、「キセル屋さん」。食事時にはチ
リンチリンと風鈴を鳴らしながらやってくるのが、煮豆や昆布巻をリヤカーにのせた「オカ
ズ屋さん」だった。
「豆腐屋さん」のラッパの音も絶えて久しく、「お払いものアリマセンカー」と、荷車を曳い
てゆくオッサンの、この荷車には、申し合わせた様に、「タロー」の様に太くてたくましい「樺
太犬」が2匹程つながれていた。
そうして、「魚屋さん」は「イサバヤさん」であり、「雑貨店」は「アラモノヤさん」でもあった。
また、「古着屋さん」も「古道具屋さん」も「雑品屋さん」も方々にあったが、当時の「古着
屋さん」は既になく、かろうじて狸小路の1丁目付近に点在する、ジーパン等を吊るしてい
る店々がその現代版と云えよう。
◆
パリの「蚤の市」の話は良く聞く。「骨董屋」・「古道
具屋」・「雑品屋」が混然一体となった、薄ぎたなく、
そのあたりを引っ掻きまわすと「蚤」でも飛び出して来
そうな雰囲気がそのネーミングに良くあらわれている。
中国大陸の大都市にも「」というのがあったそうでそ
の文字が物語るように別名を「泥棒市」と云い、何か
物がなくなったらすぐ、「ショートルイチバ」へ駆けつけ
ると、たちどころに見つかった−ものだったそうで、パ
リの「蚤の市」と一脈通じるものだったらしい。ところが、
我が札幌市の「雨だれ小路」もそれ相当の雰囲気だっ
たのだ。
「骨董屋」は今でもあるから説明の要は無さそうだ
が、「古道具屋」と「雑品屋」については、いささか注
釈を必要とする時代になって来たようだ。
「古道具屋」は読んで字の如く、古い家財道具類の
売買がショーバイだから、建具・畳・箪笥を始めとし
て、小は火バサミ・ロセン・ゴトク・デレッキ(もう死語
か?)等も扱っていた。
一方「雑貨屋」は、子供心では一段とランクが下の
様に思っていたのだが、金槌・ヤットコ・火箸の類は
「古道具屋」の商品と共通はしていたが、いづれもよ
り以上に薄汚れていた。おまけに、古針金・古釘・古
ロープの切れっぱし、古電線の切れっぱしにいたるま
で再使用に耐え得るものは総て商品だったのだ。
そう云えば「紙屑拾い」という商売もあって、ドデカ
イ竹籠を背負って、路上やゴミ箱の中の「紙」と名の
付くものは何でも、「火ばさみ」でヒョイヒョイと拾いあ
げ、これを器用に背中の籠に入れて歩く。まあ今日の
「チリ紙交換車」のクラシック版だったのだろうが、と
にかく、使い捨て、飽食の時代とは極端に異なり「ツ
マシク」そうして「リサイクル」が徹底的に行われてい
た。古き良き(貧乏な?)時代だったのだ。
◆
「古道具屋」にしても「雑品屋」にしても、何時売れるかわからないが、とにかくガラクタも山
程積んでおかなければならない。家中ガラクタだらけになる。こうなると寝る場所もなくなっ
て、上下へと増築が始まる。商品は「骨董屋」とちがって立派な倉庫に納める必要もないの
で、屋根は生子鉄板1枚程度でよろしい。勿論、雨風の烈しい時には雨漏りもするだろう。
かくして、「古道具屋」・「雑品屋」は1歩ふみ込むと薄暗く、薄汚く、ほこりっぽい、一種異
様な雰囲気もただよわせていたのだ。そうしてこの様な商店が、2丁の間、両側をビッシリ
と埋めつくしていたのが、札幌にあった「あまだれ小路」だったのだ。
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参考図をご覧いただきたい。南3条東2の「二条市場」の裏側の仲通り、南3から南4にか
けての2丁間が、今では想像もつかないが、終戦後暫くの間までは残存した「あまだれ小路」
のあった場所なのだ。
昭和4年生まれのご婦人にたずねたら、「あら懐かしい、女学校時代の同級生に、そこから
かよっていた仲良しがいたのよ」と、しみじみとした顔をされたが、まあその頃から以降生まれ
の「札幌人」にとっては、死語に近い「古地名」となってしまったものらしい。