その37
         「裏通り」の巻(1989. 4.bP)          

 「表通り」があるから「裏通り」もある。「裏通り」なるものは、札幌市内には何本も
ある筈だが、なものは数少ないと思われる。
 そうして、これから述べようとしている「裏通り」は山鼻屯田兵、それも「西屯田通り」
に縁故のある人々、及び明治も後半にこの附近に居住した人々にのみ通用したなものだっ
たから、通用範囲も極く限られていた。だからこそ現在では完全に忘れ去られた「古地名」
であることだけは確かだ。
 そうして、名称は消え去っても、この裏通りは「札幌市道」として現存しているのだか
ら不思議だ。
            ◆
 図を見ていただくとおわかりのように、西屯田通り(現13
丁目通り)と平行に南3条通りから南6条通り迄、3丁の間、
細々と走っているのが、これで、市道としての認定巾員が何程
なのかは別として、とてもマイカーの交差などは不可能な狭さ
でありながら、3丁も続いていることに一種の驚きを感じるの
だ。
            ◆
 さて、琴似に屯田兵の第一陣がやってきたのは明治8年。翌
明治9年には第二陣が山鼻へやってきたのだが、既に入殖して
いた東本願寺による開拓民は追いたてをくって、二十四軒・
二十軒・八軒とまとまって散らばっていった先が、そのまま現
地名になった転末は既に書いた。この山鼻屯田が兵屋を並べ一
種の「街造り」を始めるに当り、そのメイン道路としたのが現
在の西11丁目通り、即ち「石山通り」だ。
 この石山通りは開拓使による「札幌本府都市計画」とは無関
係に真駒内から真直に北上している。これに平行して東西屯田
通りをつけ、直角に東西の道路を走らせたのだから、札幌市の条丁目とはうまくドッキングする筈はない。加えて「開拓使」は本府(現道庁赤煉瓦)を中心として1里(約4粁)四方は「札幌圏」だと称するし、屯田兵を
管轄する「兵部省」は南1条以南は山鼻屯田地域だと主張する。そうして西屯田通りを札幌
の南1条通りにぶつけてしまった。お役所同志の勢力争いとは別に現実問題として、札幌と
山鼻ではこの様な具合で境界がアイマイなので、南3条あたりで道路同志が喰い違ってしま
い、どうしようもなくなってしまったことは、現況でもよくわかることと思う。
            ◆
 屯田兵屋は東西両屯田通りに添って、10間×15間=150坪を1宅地として120戸
づつが配置され「西屯田」の場合は、現在の南6条から南21条まで続いていたそうだ。従
って問題の「裏通り」は「兵屋」の宅地に関係はない。しかし古い地図によると、兵屋用の
宅地割りは南3条まで続いていて、1宅地の裏側には細い「生活道路」らしいものが走って
いる。
 明治30年代に入って、もともとは武士だった屯田兵だから農業にナジム筈もなく、給与
地を売りはらって離散が始まると、この「生活道路」も切断され、消滅して、偶然に生き残
ったのがたった3丁の間だが本稿の「裏通り」と推理すべきだろう。
 昭和30年頃までは、この小路を行くと、個人住宅の裏側(東側)だから、ささやかな家
庭菜園があったり、大きな庭木が薄暗い影をとおしていたり、物干にオシメがひるがえり、
赤ん坊の泣き声がしたり、のんびりと縁側で足の爪を切っている老人の姿があったりで、他
人の家を「覗きみ」する様な興味もあって、極めて風情のあるただづまいだったのだ。
 この「裏通り」、今でも自動車にわづらわせることなく漫歩できる。
 しかし、昔の情緒さらに無く、閑静な住宅街だった東側一帯は、今や薄野のオネーサン達
の「塒(ねぐら)」と化して、薄汚れた木賃アパートが軒を連ね、都心部にありながらスラ
ム化してしまった現状を、「裏通り」よ心あらば、いかが嘆げかむ−と、いう次第だ。