その35
         「山鼻官舎」の巻(1988. 9.bQ)

 開拓使当時から本道における行政の中心地、札幌には「お役所」が多かった。JRも鉄
道省というレッキとした「お役所」だったから職員はすべて「官吏」すなわち「国家公務員」
で、現在の「地方公務員」は「公吏」と呼ばれていた。
 とにかく、官尊民卑の時代だったから、「お役所」の職員には低家賃で入れる「官舎」が
沢山用意されていたが、この名残が今の
「公務員宿舎」となって続いている。
 さて、「お役所」の規模が大きければ大
きい程「官舎」の数も多くなるのは当然で、
何と云っても「鉄道」と「道庁」はその双壁
をなしていたのだ。そうして数が多くなると
「1ブロック」では配置しきれないので、市
内の各所にこのブロックが散在していたわ
けだ。
「鉄道官舎」は今の「光星地区」・「桑園駅」
の南側一帯及び「苗穂工材部」付近に大
集団をなしていた。そうしてそれ等は低層
木造で平職員用は概ね二戸長屋、課長級
ともなれば、間数の多い一戸建であったが、
学歴偏重、上下格差は厳重に守られてい
た時代だったから、子供もいない若い課長
夫婦が大邸宅をもて余し、子沢山の平職
員は長屋でウゴメイテいても、それは当然
なこととして、マカリ通っていたものらしい。
 「道庁官舎」も数ブロックあって、北1条西
17丁目と、南12条西7丁目にあったのが
大集団だったが、前者の敷地は現在「道立
近代美術館」となり、後者は「中島中学」と
変わってしまっている。
 特に「山鼻官舎前」には市電の停留所も
あって、一種の地名的な性格も帯びていた
のだが、今は忘却の彼方となってしまった。
当時の「西線」は西15丁目からは今より1本東側の道路を、「付属小学校」(二条小)の校舎の大きなアカシア並木の葉をこすりながら1丁南進して直角に右折していたが、この東側にも「道庁官舎」があったことを知る人は少ないことだろう。