その30
         「弾丸道路」の巻(1986.12.bR)

 先日、女房が本州へ墓参に出掛けたが、帰札の日と、飛行機は最終便でという
ことはきちんと日程をきめてあった。
 行先は能登の輪島の又その奥という田舎だから、土地の習慣だろうが山程お土
産を持たされるが常だ。だから今回もそうだと思ったのだろう、息子と娘がマイ
カーで、千歳まで迎えに行った。2時間もしたら女房は一人で、そうして手ぶら
で帰って来た。例のお土産は
総て宅送便で送り、千歳へ着
いたら、出発間際のバスがあ
ったので、それに飛び乗って
来たということだった。暫く
して2人がボヤキながら帰っ
てきた。どうも行き違いとな
ったらしい。
 そこで私が、「空港へ着く
のがもう少し早かったら、こ
んなことにならなかった筈だ
が、〈弾丸道路〉を行ったの
か。」
と尋ねたら、
「イイヤ、夜道で渋滞も無いと思って、高速はやめて、国道36号線を行った。」
と、答えた。
 どうも答がトンチンカンなので、よく聞いてみると、〈弾丸道路〉の名称は 、
殆んど使うことはないが、もし使うとすれば、〈高速道路〉のことだとばかり思っ
ていたとのこと。
 そこで職場の若い連中に聞いてみると、いずれも息子と同じ様な答をするのに
驚いて、今回は古地名寸前となったらしい〈弾丸道路〉について書いてみること
にした。
           ◆
 なぜに先人達が札幌の地を本道の主府としようと考えついたのか、どうもわか
らなかったが、近頃、もしかするとそうらしいと考えついたことがある。即ち、
当時人間より数の多かったエゾ鹿達が餌を求めて往来した。いわゆる「けもの道」
がいたるところにあったことだ。この「けもの道」にも小径と幹線があって、中
山越えと、千歳越えとは東岸の太平洋側と西岸の日本海側を結ぶ彼等のメインル
ートであったということだ。これらをアイヌ達が利用したことは当然で、文化4
年(1807)には近藤重蔵が札幌方面より虻田方面へ、又安政5年(1858)
松浦武四郎が逆に虻田方面から札幌へ、それぞれアイヌの案内で通り抜けて行っ
た記録は間違のない事実を証明しているし、彼等が札幌こそ蝦夷地の主府として
最適の地であることを、幕府に建言したという記録も又、事実に違いない。
 ところで「千歳越え」だが、何しろ太古は海峡だった石狩平野、標高が低く高
い山らしいものもないかわりに湿地帯、即ちヤチが多く、四つ足の鹿達は行けて
も人間様には難所が多い。そこで西岸のアイヌは石狩川口を丸木舟で遡り、江別
付近で千歳川に出て現在の千歳市あたりまでくると舟を下り、2里(8粁)程歩
いて(冬は雪だから丸木舟を引張って)美々川に出る。そこからは再び舟を漕い
でウトナイト、勇払川を下って勇払に到着したという。これを、陸行の〈けもの
道〉を千歳越新道と云ったが、千歳越えは新道より7里程長くて32里だったが、
陸行が僅か2里だからよく利用されたものだそうだ。念の為、北海道河川図で調
べてみたら、河川改修がかなり進められてはいるが、古記録が物語るとおりであ
ることは、現在の地図でも十分に納得がいった。
 さて、便利なのは良いが、札幌本府の建設に多大な資料や人員の輸送に丸木舟
では極めて能率が悪い。やはり〈けもの道〉でも陸行が便利だ。加えて内地−函
館−札幌の連絡路が完備していなければ、札幌が主府としての価値はない。こう
力説したのが、新政府のお雇外人のワーフイルドやアンチセル等で、開拓使は早
速「札幌新道」、即ち大昔は〈けもの道〉。幕末には〈千歳新道〉だった現在の
国道36号線の大規模な改修に取りかかることになり、明治5年には亀田、室蘭、
札幌と同時に着工したそうだ。しかしこのなかで一番の難工事だったのが豊平と
島松間だったらしく、今でも丘陵続きで凹凸がはげしい。有名なケプロンも来道
して工事を督励したそうだが、とにかく曲りなりにも完成したのが翌年の明治6
年だったが、クラーク博士が、「BOYS BE AMBITIOUS!!」と
一声残して札幌を離れたのがそれから5年後の明治10年の事だ。その時は農学
校の学生達も博士も総て馬上姿で、この歴史的シーンの舞台は「島松沢」だった
ので、今では記念碑が建てられていることは御存知の事と思われる。どうして皆
が馬で行ったかと云えば距離がかなりあったこともあるが、一雨降ると、馬の腹
まで埋るような「ぬかるみ」の多い悪路であったことを物語るものだ。とにかく
物凄い突貫工事で出来上った欠陥道路であったことだけはたしからしい。
               ◆
 それから以降、昭和20年の終戦までは、この「室蘭街道」は、多少の改良を
加えられた砂利道にしかすぎなかった。
 しかし、終戦とともにアメリカ軍が札幌にやってくると、千歳空港から真駒内
のキャンプ・クロフォード迄を、こんな、まだるっこい砂利道では頭に来たのだ
ろう。機械力に物を言
わせて、屈曲のはげし
い部分は丘を切り開い
てショートカットし、
巾員を広げてアスファ
ルト舗装をして、6輪
の軍用トラックが、木
炭ガスでノソノソ走る
日本車を尻目に、ビュ
ンビュンつっ突ばすこ
とになった。札幌市民
はただアレヨアレヨと
驚くばかりで、いつし
か国道36号線は「弾
丸道路」と呼ばれるよ
うになった次第だ。
 アメリカ軍が居なく
なっても、「弾丸道路」の重要性は増々つのり、開発局ではショートカ
ットや拡巾をどんどん
進め、旧月寒種羊場付
近では、旧道と新道が
出たり入ったりしてい
る現状は良くおわかり
の事と思われるが、つい先だって、クラーク博士ゆかりの地「島松沢」に延長
160米の立派な「島松沢橋」が完成した。取り付け部分の道路を含めて2粁に
及ぶ大工事だ。これでアメリカ軍のオープンカットに加えて一層の直線化が進め
られたにもかかわらず、「弾丸道路」の愛称が「高速道路」と間違われるとは実
に「十年一昔」の感の深いものがある。
               ◆
 と、いう次第で、成程と思われるのはまだ早い。実は「弾丸道路」の愛称第1
号は、実は札幌市内、豊平川右岸の堤防道路の事なのだ。
 昭和21年の5月、アメリカ軍が真駒内にキャンプの建設を開始すると、都心
部へ直行する為、強引に堤防の高さを1米程カットして巾員を拡げ、テンプラ舗
装をしてジープが走り廻り始めた。札幌市内で酔っぱらったあげく、転落して林
檎園や川原に突込んでの死亡事故も頻発したものの、札幌市民は羨望の念も込め
て、これを「弾丸道路」と称した。−ということを知っている人は立派に「札幌
原人第二世」をとなえる資格がある。
 しかし、この有資格者は60歳以上に限られてきたらしいことは誠に残念至極
と言わざるを得ない時代になってきたらしい。