その28
         「琴似街道」の巻(1986. 4.bP)         

 某日、後輩の佐藤さんがやって来て、「のそばに高層マンションを計画したら、附近住居から
の突きあげを喰ってしまって・・・・」と、ボヤキだした。
 彼もそろそろ60歳に近い。勿論「札幌っ子」だから、我々の会話の中には「古地名」が何の
注釈も無しにドンドン飛び出してくる。それでも話しは十分に通じる。
 末武さんに「琴似街道を知ってますか」と、たずねたら、「アア知ってますよ。市電の円山終
点から、次の停留所が琴似街道で、その次が円山3丁目、そして西20丁目。それから線路
は南北に分かれて・・・」と、明解な回答が
はね返ってきた。彼も又「札幌っ子」で年齢
も私と殆んどちがわない。
 そこで、職場の若い女の子で、円山から通
勤しているのにたずねたら、「サー、年寄りは
よくそんな事を云いますが、よくわかりません」
との答だった。我々も年寄りに仲間入りしたら
しい。
            ◆
 さて、そこで先ず「第一図」をご覧いただき
たい。
 昭和6年10月における「市電」の路線網図
だが、末武さん言明どおり、円山公園・琴似街
道・円山3丁目と、停留所が続いていたことは
確かだったことがわかる。そうして「琴似街道」
はこの「電停」附近を通っていたことがわかる。
 次に「第二図」だが、明治29年版の5万分
の1、の一部だが、「円山村」の村道で、はっ
きりしているのは東西には現在の「裏参道」と
「表参道」の2本のみ。
「裏参道」は明治初期には「御本府通」と称し
て、円山村と札幌を結ぶメインストリートだっ
た。しかしこのメインストリートは、札幌の区画
割りとは何の関係もなく東に伸ばされたので
「村界」の西20丁目まできたら、札幌の南1条
通りとは、うまくドッキングしない。そこで止む
を得ず「斜め」にスリ合わせたが、この名残りが、南1条の西20丁目通と西19丁目通りに
かけて現存している。
 次に「表参道」だが、「文」のマークがあるのは、現在「円山小」のある位置で、札幌の北
1条通りと、未だ接続されていないのが良くわかる。これが開通するのはずっと後の話だ。
  そうして、南北の道路は「黒塗り」にした、山鼻屯田の行啓通(南14条通)
 の西20丁目附近から山裾を斜に北5条まで伸びているのが1本のみなこと
 がわかる。この村道は山鼻屯田の居住者が、既に形態をなしていた「札樽
 国道」に出る為の最短距離をたどった自然発生的なもので、「小樽道」又は
 「銭函通」と呼ばれていたらしい。この道路の名残は、「裏参道」から南6条
 にかけて「斜め通り」として、現存していることは前にも書いたことがある。
 さて、この「小樽道」又は「銭函通」がいつ頃から「琴似街道」に変ったのかは
 判然としない。しかし円山小学校の前を南北に走る西25丁目通りを「琴似街
 道」と称したことに間違いはなく、その終点は「北5条」で「札樽国道」にぶつ
 かる地点であったことも確実だ。しかし起点がわからない。一説によると電停
 の「琴似街道」から北5条までの延長、5丁の間を、そう云った−のだそうだ。
 いずれにしろ、この界隈が「旧円山村」の中心で、有名な「円山朝市」が賑い、
 病院、学校、消防、警察、そうして役場が立ち並んでいたことを知る人々もだ
 んだん少なくなってきたことだろう。しかしそれでもまだ巨大建築物に拒絶反
 応を示す「原住民」の末裔もかなり残ってはいるらしい。