その27
         「逆さ川」の巻(1985.12.bR)          

 は じ め に
 愛読者?の某氏より、東米里方面に調査に行った折、「逆さ川」という固有名詞
が故老の口から出たが、機会があれば教えてほしい、とのおたよりを頂いたのが昨
年の夏のことだった。遅くなったが今回はこの「逆さ川」をとりあげることにした。
 「河・川」について
 アイヌ語では「大きな川」又は「魚の豊富な川」を「ペツ」と云い、「小さな川」
又は「渓谷」を一般には「ナイ」と云った。だから道内には「○○別」とか「△△
内」の地名が非常に多いことはご承知のとおり。
 豊平川は「サツ・ポロ・ペツ」であり、山奥から流れて来る真駒内川は「マク・
オマ・ナイ」だが、「河・川」については、和人とアイヌの考え方が正反対だった
ことを知る人は少ない。
 和人の場合
 河が海にそそぎ込むところ、即ち河口は、「川尻」とも云って、身体でいえば、
一番ケツの方、一番最後、これでおしまいのところ、と考えている。
 だから、「ナイルの源流をたずねて」と、いえば、ナイル河を「下」、終りの部
分から遡上して、「上」、即ち「頭」にあたる部分を探訪することを思い浮べるこ
とはごく自然だ。
 アイヌの場合
 アイヌの人々はこれと正反対に、我々のいう「河口」を「河のはじまり」と、考
えていたのだ。
 狩猟民族だったアイヌは、夏になると海岸に出て来て漁業にいそしんだ。夏場だ
けの部落(シャック・コタン)も形成されたのだろう。
「積丹半島」の「積丹」は、これからきている。
 さて、彼等の考え方は、川は生き物で、海から上陸
して、上へ上へと山の方へ登って行くというものだ。
だから支流は「川のうで」、曲り角は「ひじ」、とな
り、屈曲している部分を「小腸」と云った。
 ところで、昔の北海道のことだから原始河川ばかり
で蛇行がはなはだしい。川口からさかのぼって山に向
って漕いでいるうちに、いつの間にか方角が海の方を
向くことがある。此所を「ホルカ」と云ったが、「ホ
ルカ」の付く地名と云えば、泊原発の近くに「堀株」
(ホリカップ)がある。50年以上も前に父に夏休み
にはよく連れて行ってもらったところだが、現在でも
「ホリカップ川」の川口附近は沼ともつかず、湖とも
つかない、おかしげな地型でそれよりも、もっともっ
と昔では、たしかに「ホリカ」だった筈だ。幌加内
(ホリカ・ナイ)もやはり同じ様な地型からきてい
る。この「ホリカ」がアイヌの人にとっては「逆さ
川」だったのだ。
 札幌の「逆さ川」とは
 道内の地名には、アイヌ語を漢字でコヂツケたもの
が多いが、札幌の「逆さ川」は残念ながらアイヌ語の
「ホリカ」には全然関係がなく、純然たる和名だ。
 さて、愛読者氏?が「東米里」方面に行った折、と
あるが米里や川下地域は私が知っている限りでは昭和
15年ぐらいには荒涼たる原野で人影もなく、「うさ
ぎ狩」に行ったところであり、昭和30年代の初期には「東米里小学校」があった
から人の数もふえてきた頃とは思うが、何しろ物凄い泥炭地帯で、小学校の屋体の
床はカマボコ形に隆起して児童は直立不能。棒を地面につき立てるとズブズブと埋
り込み、引き抜いた穴にマッチを摺って落すとメタンガスが青白い炎をあげて、の
ぞき込んだ私のマツゲをこがしたりもしたし、このメタンガスを集めて校長さんの
お宅では、煮たきや、風呂わかしにも使っていた程だった。だから大昔は広大なヤ
チだったろう。
 ところで、現在、「下水処理場」のある付近で、月寒川と望月寒川が合流して豊
平川にそそぐ部分、ここを「逆さ川」と称した。豊平川が増水するとこの部分は水
が逆流した。だから「逆さ川」で純然たる和名だ。
 近頃は河川改修や水路の整備でこの現象は見られなくなって、「逆さ川」と呼ぶ
ものもなく、いつしか忘れさられてしまった。−のが真相だろう。