その26
          「大根道路」の巻(1985. 8.bQ)         

 札幌市の南1条、或いは北8条等の東西に走る道路は西は山や北大にはばまれ、東は
豊平川にさえぎられて、直線的にはあまり長い距離ではない。
 しかし、南北に走る道路は南は豊平川でストップはするものの、
北は遮るものがないので延々と延ばしてゆくことが、物理的には
可能だ。
 そこで東1丁目の「石狩街道」だが、ご存知のように南9条橋の
「ローヤルホテル」の傍から始まって、「二条市場」を通りすぎ、北
へ北へと一直線、札沼線のあたりで多少曲ってはいるものの茨戸
で「旧石狩川」にぶつかる迄だから、これは長い。
 次に、西11丁目の「石山通」。これも多少の屈曲はあるが、石
山付近から始まって藻岩下、「軍艦岬」の下を通り、植物園の西
側をかすめて、国鉄のレールで終り。此所が「魔の踏切」と称され
たことは以前に書いたが、今ではアンダーパスを通り過ぎて「新
川通」となり、新川ぞいに北へ一直線、「新川処理場」のところで
「樽川埠頭通」でストップするが、行こうと思えば、まだ真直に行け
る。行きつく先は日本海で、「オタネ浜」だ。しかし、これは最近の
ことだから、「藻南公園」、昔の「オイラン渕」から「魔の踏切」まで
と云うべきであろう。これも又結構長い。
 そこで、「西5丁目通」に目を転じてみよう。駅前通りから1本西
の道路で、あまり目立たないが、札幌の古い歴史のしみこんだ、
極めて由緒正しい、そうして最も長い道路ではなかろうか−と、私
は思っている。
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「西5丁目通」は南9条から始まる。しかし南6条の「青木写真館」
から南9条までの間は、道路がグッと狭くなっておかしく曲りくねっ
ている。これは前にも書いたが、南6条以南は「林檎園」だったもの
を、無計画に切売りした結果で、6条から南4条にかけて、今の「ヨ
ークマツザカヤ」あたりの一帯は、「札幌遊廓」のあった場所で、当
時この「西5丁目通」には豊平川の枝流から引いた「疎水」が流れ、
両側には柳が植えられた情緒あふれた、たたずまいで、これが道
庁の正門までも続いていたことも既に書いた。そうして一応は国鉄
函館線とぶつかるが、ここに「踏み切り」があって、これから先、道
路はまた一直線に北に向って伸びていた。−というのが大正末期、
即ち私の生れた頃迄の姿であったらしい。
                     ◆
 私の小学校1年生の秋、それは昭和7年の事だから53年も前の
ことになるが、「陸橋」が完成して、それまで北6条から北18条まで
を往復していた電車は、この「陸橋」を乗り越えて、市内のレールと
ドッキングすることになり、「北18条」から「一中前」、現在は「静修
学園前」という名称になっているらしいが、この線路は主要な幹線となり、且つドル箱ラインとも
なったのであった。
 その頃、市電の「北18条」の終点から先は人家もまばらだったが「西5丁目通」だけは巾広く
北へ伸びて、北24条から左手一帯が、広漠たる「札幌飛行場」だったことも既に書いたが、飛
行場を左手に見て、まだ続く道をどこまでも行くと、北40何条かにあたる頃に、我々の通称「製
麻会社の工場」に突き当った。調べてみると正式には「帝国繊維琴似製線工場」であったらしく、
あたり一面は背の高い亜麻畠で小学生には左右の見晴らしは全然きかず、ただ高い煙突が亜
麻畠の向うに何本か突立っていた記憶が残っている。これが昭和一ケタ当時の「西5丁目通」
の姿だ。
                     ◆
 明治28年(1895)に、札幌尋常中学校(一中→一高→南高)が北10条から11条にかけて
「2丁角」程の広い校庭で新設された。「西5丁目通」の東側だ。一方、札幌農学校が「時計台」
あたりから現在地に引越したのが明治36年(1903)だから、その頃には都心部と「文教地区」
を結ぶ唯一の道路として、この「西5丁目通」はかなり北まで整備され始めたものと思われるし、
この頃から「大学通」の愛称が生れたものだろう。この愛称は今でも続いてはいるものの、昔程
の固有名詞的迫力は無くなった。と、いうのも「大学」=「北大」ではなくなって、大学の数も随分
ふえたからに違いない。
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 話は変って、新琴似に屯田兵が入植して開拓を始めたのは明治20年からだが、地割りを一番
通りから六番通りまでとし、四番通りをメインストリートとして、中隊本部をこれに面して建てたこと
は、本部が史跡建築物として今も残されていることからも良く理解できよう。明治も末期になると、
麦と大根の二毛作が定着して、札幌市民に対する秋口の漬物用大根の一大供給地となった。
 さて、札幌へはこぶとなれば、石狩街道か、琴似本通をへて、札樽国道を通るしかない。何しろ、
鉄のタガのついた真径1.5米もある木輪の馬車に、大根を満載してトコトコやって来るのだから、
スピードが極めてのろい上に、悪路にも又極めて弱い。
 そこで、何とか近道をと云うことで、四番通を南へ延長し、北へ北へと伸びてきた「大学通」と直
結させたのが明治40年頃の事だったそうだ。
 かくして、四番通から大学通は、シルクロードならぬ、ダイコンロード化し、「大学通」は「大根通」
に変じた。−と或る本には書いてあるが、これはウソだ。
 札幌市民にとって、秋の一時だけの現象で、愛する「大学通」を「大根通」と改称することは無か
った。むしろ──と、「」呼ぶようになった。と、改めるべきが本当だろう。
 では、本当の「大根道路」は、と尋ねられたならば、私は「西2丁目通」がそうだった、と、確信を
もって答えたい。市電の「鉄北線」開通が大正5年。電車が走るようになってからは、西5丁目は
大根馬車は交通障害となり、又、馬もあばれたら大変なので大根道路にはならなかった筈だ。い
わんや昭和7年以降は「陸橋」ができたので、絶対に大根道路である筈はない。
 私の知っている限り、新琴似の人々が言っていた「大根道路」である四番通りを南下した大根馬
車は北16条で東に折れて、西2丁目通を再び陸続として南下していったのだ。 それはどうして、
と聞かれたら、躊躇なく、「踏み切り」があったからと答えよう。当時、国鉄の「踏み切り」は、石狩街
道、西2丁目、西5丁目と、西11丁目の「魔の踏切」の4ヶ所しか、なかったが、西2丁目が、大根
馬車にとっては一番安全なルートだったからだ。
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 それにしても、街中の家々の軒端には、白々と大根がブラさがり、手を真赤にしたカミサン連中
が、井戸端で漬物の樽づめにセイをだしている秋の風物誌が、どこにも見受けられなくなったの
は、淋しい限りではある。