その24
「円山村界」の巻(1984.12.bR)
円山町は昭和16年に札幌市と合併した。それ以前は独立した「町」だったから札幌市との
境界は厳然として存在していたし、それ以前には「村界」があったことになる。
円山村開拓の歴史は古い。
明治3年4月、酒田県(山形県)の農家の人たち30戸(90人)と翌4年3月には岩手県から
の6戸が合流して、合わせて45戸、151人の人びとで村づくりが始められた。この町「庚午三
の村」が「円山村」と改められたが、屯田兵の第1陣が琴似に入植する4年前のことだ。
明治39年(1906)に山鼻村と合併して札幌郡藻岩村字円山村となり、南14条西11丁目
にあった藻岩村役場は円山37番地(現在の南2条西24丁目)に移転した。
その後昭和13年(1938)には藻岩村が昇格して「円山町」となり、昭和16年には札幌市
に編入という経過をたどっている。
ところで、北2条西21丁目に、市立病院の宍戸先生のお宅がある。先生は未熟児センター
の医長さんで、その道では有名な方だが私の小学校時代(北9条小)の1年先輩で良く遊ん
だ仲だったので今でも時々お邪魔をすることがある。
それなのに、一発で玄関に到着することはまず少ない。と云うのも、北4・3・2条を西進する
と先がしぼまって何ともおかしな具合になってしまう上に、左折、右折をするのに都合の良い
キチンとした仲通りが無いからだ。
おまけに、先生のお宅から
チョイト西へ行くと、おかしく喰
い違った4つ辻があって、北
東の角地にある中菱建設の
社長さん(田中邸)の屋敷の
西側に添って、これまた怪し
げな小径が曲りくねって続い
ている。(第1図参照)。
街のド真中でありながら、
どうも不思議だとかねがね思
っていたが、最近宍戸先生か
ら、「あそこは旧円山村界で
昔は小川が流れていたらしい
ヨ」とお聞きしたので札幌市の
古い地図(第2図)を調べてみ
て成程と納得がいった。
この地図は明治36年のもの
だが、あきらかに札幌と円山
村との境界は南2条から大通
あたりまでは今の西20丁目線
を通っているが、それから先は北西に流れてゆく小川が境界線となっているのだ。従って
札幌の当時における都市計画上の区画割りは総てこの境界線でストップしていることも良
くわかった。
円山村は役場から札幌へ向う道路を東へ一本通した。これが現在の「裏参道」で、札幌
が「南1条通り」とした道路とはうまくドッキングしない。だから現在の南1条通りは西20丁
目では行き止まりとなり、西18丁目付近からおかしな斜め通りが走っているがこれは無理
にスリ合せた名残りと云えようし、北1条通りが西20丁目からは少し北西に曲っていること
も又良くわかった。
北5条通りは札幌と小樽を結ぶ主要幹線だから、これは当時から真直に通っているよう思
われるが、私の小学生時代の昭和初期には、西20丁目角の「日産自動車」の場所には鐘
楼のある大きなお寺があった。そうしてこのあたりからは道路巾がグット拡がっていたから、
恐らくは北5条通りと円山町道がダブッテいたものだろう。
北4・3・2条の通りはメインストリートでもないし、既に札幌の郊外住宅地として発展した円
山町の町並みと無理にスリ合せようとすれば、市街地再開発事業でもやらなければならない
のでウヤムヤに放っておかれたのが、「宍戸先生宅」付近の現況と云えよう。
さて、この旧円山村と札幌の境界を流れていた小川だが、「円山川」−アイヌ語で「ヨコ・ウ
シ・ベツ」−現円山動物園の横手から円山への登山口をへて、市長公邸の西側で池となって
北へ流れていったものの下流か、「界川」−旭山公園と旭丘高校との間の谷間を流れ、旧藻
岩村と円山村との境界だったのでそう呼ばれていたそうだが、その下流なのか、「十二軒川」
−アイヌ語の「ケネ・ウシ・ベツ」−荒井山の下から琴似方面に流れていたものの下流なのか、
今では判然としないがいずれにしろこれらの小川は1本となって「琴似川」となり、蛇行を続け
ながら篠路付近で「伏籠川」−アイヌ語のフシコ・サッポロ・ベツ−すなわち旧札幌川(豊平川
の旧流)に合流して日本海へそそいでいたものだ。
どうも不思議なことだが天然自然の山々に私有のものは沢山あるが、農業用水等は除き大
小自然河川の流域はそれぞれ「河川敷地」と称してその大小に応じた巾が国有地となっている。
国有地ともなれば、みだりに家を建てたり屋敷をハミ出すわけにはいかない。だから家々が建
て込んできても、「河川敷」だけは曲りくねりながらでも「空地」としてとり残されるわけだ。とうの
昔に小川の流れは涸れあがったものの「空地」は空地だから付近の人々は何となく近道として
の「生活道路」として使いだす。どうもデコボコで歩きにくいから盛土をしよう。などと云っているう
ちに「宍戸先生宅」のちょっと先で、「田中邸」の西側のおかしげな小径がいつの間にか出来上っ
たわけだろう。
ともあれ、たった100年チョット前までは、このあたりエゾ鹿の群が走りまわり、鮭や鱒が真黒
になって、川巾一杯にさかのぼって来ていたのだ。