その22
           「温泉山」の巻(1984. 4.bP)         

 「温泉山」という山はどこですかと問いかけられて、誰もここですとは答えられない筈だ。
それほどこのあたり、界川や双子山にかけての地形は旭山記念公園の造営によって、
原型をとどめぬ程変ってしまったからだ。
 前にも書いた「ゲンチャンスロープ」や「拓銀スロープ」等と一緒に「温泉山」の所在も
不明になったのかと云うと、これは案外判然としている。
 このタネアカシは後まわしにして、どうして「温泉山(おんせんやま)」と称したか?から始
めてゆくことにする。
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大正の末期から昭和の初期にかけて、といえば60年程昔のことになるが、当時の札幌
市の人口は14.5万の頃で中央区に毛の生えた程度の街だったわけだが、宮の森から
藻岩の山麓伏見方面にかけて、大温泉旅館が続々と建てられた。
 円山温泉・藻岩温泉・札幌温泉等がそれで、中島公園の電車終点には中島温泉、手稲
山麓にも手稲温泉「光風館」が建てられていた。これ等の温泉は「温泉」とは云いながら、
「沸かし湯」が多く、湧出する鉱泉を温めるのはまだ良心的なほうであったらしい。しかし
今考えてみると「レジャーセンター」の建設で、アイデアとしては決して悪くない。ただ我も
我もの商法と、致命的だったのは時期的に50年程早過ぎたようだ。しかしこの中で「札幌
温泉」の企画は極めて近代的なセンスにあふれていたことに感心させられる。
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 「温泉山」と称された一帯は「吉野牧場」だったという。これを大正11年(1922)に札幌
温泉土地会社が温泉場建設のため買収した。「温泉」は定山渓から延々40粁をパイプで
持って来る予定。
 お客さんの「足」としては、当時走っていた市電の円山線の、終点から一つ手前の停留
所「琴似街道」−この記憶は少々あやしい−から、単線ではあったが「界川」のあたりまで、
電車を走らせた。
 建物は「風詠館」と称して洋風のホテル風。前庭には孔雀などを飼ったミニ動物園的な
もの等もあって、札幌市街を見下ろす眺望は素晴らしく、又、札幌市街からも「風詠館」の
偉容?は藻岩山麓に一きわ目立った存在だったのだ。まあ小林一三の宝塚温泉の経営
方式を真似たものだったのだろう。
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 定山渓から「温泉」をパイプで引張ってくることには失敗したが、建物は完成し、電車も
昭和3年には走り出している。だから
「札幌温泉」は大正末期から昭和初
期までの数年間は営業を続けていた
ものと思われるが、この電車、昭和5
年には営業不振により廃止されてし
まった。たった2年間走っただけの「幻
の電車」だったわけだ。
 何しろ私が3歳から5歳の間の出来
事だから記憶が薄れてゆくのは仕方
がないが、市電のオレンジとグリーン
の車体に対してチョコレート色のやや
大型な車体だった覚えはある。いづ
れにしろ山鼻在住のさるお医者さん
がこれ等の記録を克明に調べておら
れるから電車に関しての歴史は確実
に残されることになっている。

「札幌温泉」が廃業しても、「風詠館」
の廃屋はかなり後まで残っていたが、
何時の間にか取り壊されてしまった。
そうしてその跡には昭和25年に鉄道
弘済会が「南藻園」という児童福祉施
設を建てた。「旭山公園」の付近で、
「南藻園」の建物を見付けたならばこ
のあたりは「温泉山」と呼ばれたあた
りと思っていただきたい。
「南藻園」から沢を一つへだてて東側
には「旭丘高校」が建っている。
「旭丘高校」建設中の25年前、この沢
にはまだ「エゾサンショウウオ」が生息し
ていたことを知る人は少ないだろう。