その2
「軍艦(ぐんかん)岬(みさき)」の巻(1977.4.bP)
最近、札幌市議会である議員(せんせい)が、「軍艦岬の付近は・・・・」と、やり出したら一同大笑い
で話にもならなかった一幕があったという。私は憤慨に耐えない。
一体「笑い」とは何であるか。 「笑い」とは、自分を皆の衆より一段と高いところに置いて、低い
所にウゴメイて、右往左往して走り回ったり、しゃべり合っている皆の衆のやることなすこと話すこと
を、「何とバカらしいことをするのだろう・・私なら決してそんなアホらしいことはしないのに・・・」と、軽
蔑の念を抱く時に生じてくる生理現象─だそうである。
だから、「軍艦岬」を笑った人々の心の内には、「軍艦岬?何のコッチャイ。だから年寄りにはカナ
ワンナー」という「何物」かがあったに相違ないのである。「何者か」は「軽蔑の念」に相違あるまい。
それで私は憤慨するのである。「軍艦岬」は現に聳えている。それを知らない人々こそ軽蔑されるべ
きで「かけ出しの札幌っ子じゃ、知らないのも無理もアンメー」・・・・と、「笑い」ながらこの稿を進めて
ゆきたいと思う。
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今の常識からすれば、船の「へさき」は波を切りやすい様に、日本刀の「きっさき」を横から見た型
をしているべきである。ところが一昔前の軍艦だけはその逆で、頂度お城の石垣を横から眺めた様
に下が出っぱっていたのである。だから海中の部分は「かじきまぐろ」の角(つの)の様にとび出てい
た次第であった。これを衝角(しょうかく)と称したそうで、明治時代の日清・日露両戦役で奮闘した
軍艦はすべてこのスタイルで、日本海々戦に東郷司令長官が乗っていた、我が大日本帝国海軍の
旗艦「三笠」も勿論、衝角で白波をけたてながら、バルチック艦隊に突進していったのである。
さて、ではこの「衝角」は何のためにあるかと言えば理由は極めて素朴なもので、大砲の弾を撃ち
つくしたら敵艦目がけて一直線、そのドテッ腹を芋刺しにして動けない様にしておき、こちらから水兵
が敵艦に「なぐり込み」をかけて分取ろうと言うのだからスザマジイ限りである。
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頃は40年前に遡る。小学生の我々は今日、「花魁(おいらん)淵(ぶち)」まで炊事遠足で山鼻西線
の「南22条西11丁目」に降り立ったところである。石山通りはダダッ広く南へ一直線に伸びている。
左側の啓北商業高校から自衛隊に至るあたりはサッポロビールのホップ園で右側は山際まで一
眺の畠である。
畠の彼方、藻岩山の尾根が石山通りに迫ってきてストンと崖になって落ち込んでいるところが「軍
艦岬」なのである。明治9年に山鼻に移住して来た屯田兵の皆さんは海の彼方の故郷を偲んで一眺
の畠を海原に見たてたのであろう。海に岬はつきものである。あの崖の型は軍艦の「へさき」そっくり
だ。そうだ─「軍艦岬」としよう!!と、まあなったのだと伝えられている。
この「軍艦岬」の左側、今の藻岩下住宅街は一面の荒涼たる玉石原で家等は一軒もなく、豊平川
左岸の堤防が石山通りに斜に交わってくる地形は、今も昔も変わりはなかった。
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南22条からはっきり見えた「軍艦岬」も今では全然見えない。南30条あたりでは「地崎さん」のア
パートが邪魔になる。藻岩橋を渡って石山通りを札幌市内に向い、「軍艦岬」はどこか等とウロウロ
していると、自動車に轢きひき殺されてしまうだろう。
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巌頭に登り、夕陽にかすむ平岸を望み、小便で虹を画いて快哉を叫んだ若き日の思いでの場所は、
今や都会の喧噪の中に忘れ去られようとしている。