その19
「新川」の巻(1983. 5.bP)
札幌に生まれて間もなく満58年になろうとしているが、「新川」と言えば二つの「新川」は
よく知っている。
先ず現在も流れている「新川」だが、これは皆様御存知の札幌競馬場の北側から一直線
に日本海に向って北上して北区と西区の境界をなしている川だ。
この「新川」、名前は新しそうだが決して
新しくはない。100年以上も昔の明治3年
に開拓使が排水のために、幅9尺(2.70
米)、深さ2尺(60糎)で掘り始めたものだ。
しかしこんな程度では話しにならないので、
明治19年から2年がかりで今の様な大規
模なものにしたわけだが、「人工による新
しい川」の意味から、「新川」という固有名
詞となった歴史がある。こ
の川には「水源地」がない。現在では琴似
川や発寒川等がこれにそそいでいる
が、かつては「大学の川」−シャクシコトニ
川も注いでいたのだから「水源地」らしいも
のもあったわけで、結構な水量で澄んだ
(と言ってもマアマアでやや茶色)水が流
れ、鮭が遡上し、種々な魚も住みついてい
たのが、昭和も30年以降ともなると、急激
な両岸の市街化により一般汚排水がたれ
流されて巨大な汚水溝になり果ててしまっ
た。しかし下水道の普及にともない再びウ
グイやアカハラも釣れだすようになってき
たのは楽しいことだ。
次の「新川」だが、通称「桑園新川」で、
これを知っている人は、昭和一ケタ時代に
は物心がついていなければ記憶に残って
いる筈がない。これも人工の川だが「水源」
はあった。シャクシコトニ川と同じで、伊藤
邸内のメムがそれであった。「魔の踏切」
のあたりで鉄道の下を貫通し、北大の第二
農場沿いに流れていたが、この川の痕跡は殆んど残っていない。
最後の「新川」だがこれは札幌市街のド真中を流れていたのだ。写真は大正14年(私の
生れた年)の撮影で西5丁目通りの大通付近だが、伊藤組土建の山川さんから頂いた貴重
な記録で、25周年記念誌にも掲載されたので覚えておいでの方も、もう一度ご覧いただき
たい。
藻岩の山裾の姿は今も変りなく。
時は初夏の候か日傘の人が行く。
角力の地方巡業が来ていて、のぼりがはためき、櫓も立てられている。
5丁目通りの西側を一条の小川が 流れている。
この小川、地図に示されているように、「鴨々川」から分流して南6条からは真北に向い道
路の中央を流れ、その両側に「しだれ柳」が並木となっていたそうだ。
大通からは道路の西側を流れていたということはこの写真が明らかに示している。この「人
工川」、道庁の正門前を通過して道庁ぞいに西進し、右折して北5条通りを再び西進して、植
物園の中のメムから流れ出る小川に合流していたのだ。
北5条通りを西進して、植物園の北側に
さしかかったら、伊藤邸の西側の仲通りあ
たりの地形を注意していただきたい。その
昔この電車通りに面して古い北大の学生
寮があったのだが、今でも何となく平坦で
はない、おかしげな様相を呈しているが、
このあたりが、植物園から流れ出た小川
の痕跡を示すものらしい。
さもあらばあれ、古き良き時代のサッポ
ロは、水清く、大気澄みわたり、人情こま
やかにして、住みやすい、コジンマリとし
た、うるおいのある、文化都市であった様
な気がしてならない。