その18
           「大学の川 」の巻(1982.12.bR)        

 昭和も一ケタ時代、北9条小学校に通学する子供達にとって、北大の構内は何よりの遊び
場だった。
 この北大の構内を屈曲しながら北に流れていた小川が我々の言う「大学の川」で、正式に
は「サクシコトニ川」という立派な名前のあることなどは知らなかった。
 源は何のことはない、伊藤組土建の社長邸の庭園にある池で、このお屋敷を「亀太郎さん
の家」と呼んでいたが伊藤亀太郎さんとは御当主の先先代のお名前だ。
 ところで、札幌は豊平川の広大な扇状地の上に建設されたが、扇状地も周辺近くに
なると砂礫層が次第に薄くなって水を通さ
ない粘土層に行き当ると砂礫層をスイスイ
流れてきた水(覆流水)は行く場所がなく、
あとからあとからと押されるものだから終に
は地上に湧出する現象を生じる。この湧水
による大小の池が当時の札幌の「大通」以
北には随分あった。明治9年に創立された
「札幌ビール」の工場も苗穂方面にあった
大きな「湧き水」が目をつけられ、大きなボ
ーリングにより良質な水を多量に使える万
能性が十分だったからだ。
 この様な「湧き水」をアイヌは「メム」と言っ
た。従って道庁の池も「メム」だったし植物
園の中にも大きな「メム」がいくつかあった
のだ。今でもフジヤサンタスホテルの西側
は何となく低地になっているし、道路をおか
しく曲がっているがあのあたりにも大きな
「メム」があって、植物園の正門への小径
はメムの中央を埋めたてて作られたもので
あり、両側は池であったことを知る人は少
ないだろう。(平面図参照)
 さて、伊藤邸内のメム跡は北6条の鉄道
側からはよく見えた(・・・)が小さな谷のよう
な地形で、当時は小舟が浮んでいたのが車
窓から見おろされたものだった。
 私の亡くなった父親は先代の伊藤豊次さ
んと旧札幌中学校(一中→南高)の同級生
だったそうだが、伊藤君の家に遊びに行くと、庭の池の中には孵化したばかりの鮭の子が、腹に卵をブラさげたような形でウヨウヨ泳い
でいた。とか、道庁の池にはかわうそが棲みついていて夜にはうるさく騒いでいた、等と話して
いたがこれは明治末期の話で昭和初期の我々の時代には、既に鮭の遡上はごくまれではあっ
たものの、それでも舟遊びが出来る程の水量満々たる大きな天然の池がそこにあったのだ。
 この「メム」からの小流は北へ向って「偕楽園」附近の「ヌプサム・メム」に注ぎ、それからは現
在の「クラーク会館」横から中央ローンを斜に横ぎり、医学部、工学部の南を西行、工学部の裏
手から北流して競馬場の北側で新川に注いでいた。
 何しろ「湧き水」ばかりの流れだから厳寒期にも外気より水温は高い。だから表面から「湯気」
をたてながら流れていたが両側は侵食作用で坂になっていて、子供達には何よりのスロープで
朝から晩までそりやスキーを楽しんだ。春になるとヤチになった部分には真白な水芭蕉が沢山
咲いたが、我々は「蛇の枕」と言う名で呼び触れる手が腐ると敬遠した。そうして夏になると魚
すくいが始まる。
 先ず「ヨコエビ」が「キンギョグサ」と呼んだ水藻の中に沢山いて、雌は小さな子を腹に抱いてい
たが、雌も雄も泳ぐ時は必ず身体を横たえて跳ねまわる様にしていた。だから「ヨコエビ」で体長
は1糎内外「オキアミ」に似たスタイルだった。
 次が「サルカニ」。これは「ザリガニ」のことだが、どうしてか「サルカニ」と呼ばれていた。
 一番いたのが「トンギョ」。勿論「とげうお」の事だが、家へ持って帰ると一晩で死んでしまう環
境の変化には弱い魚であった。
 人口18万時代の古き良き札幌には清く澄んだ水が豊富だったが、今や地下水の低下で、道
庁のメムも植物園のメムも、そうして伊藤さんのメムもすっかり涸渇して、わが愛する「大学の
川」も中央ローン附近に人工的に水をたたえられて、僅かにその面影をしのばせるだけになっ
てしまった。