その14
          「大門通」の巻(1981. 8.bQ)       

 この稿を始めるに当り「遊廓」と云うものの故事来歴を知っておくことが予備知識として必要だ。
しかしこれを詳述することは一冊の本では間に合わない程なので〔売春が公認されていた
限られた区域又は区廓〕とでもいっておこう。
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 明治2年に開拓使が発足し、早速「札幌本府」の建設が始まるが、二世帯人口僅か11人とい
う当時の札幌だから労働力は零に等しい。
そこで本州から労務者を大量導入したわけだ
が、かなりいいかげんな連中も混って来たも
のとみえて、「土方、職人、浮浪者又ハ一攫
千金ノ徒多ク、随ツテ人情薄ク風俗亦紊レ賭
博公行シテ飲酒ニ耽リ殴打其他ノ犯罪多ク、
金銭ヲ賭スルコト土塊ノ如ク醜業婦出没シテ
淫猥ノ風盛ナリ」。と、いった有様。当時の札
幌はちょっとしたブームタウンで、アメリカの西
部劇の日本版と思えばよい。あやしげな女性
達がいつしか集まって来るムードは、洋の東
西を問わないようだ。しかし絶対数が問題にな
らない。そこで女ひでりは大変なもので、欲求
不満にさいなまれ、眼を血ばしらせてうろつき
廻る、むくつけき野郎どもを何とかなだめるに
はやはり「女」に限る。
 そこで明治4年、時の判官岩村通俊は部下
の薄井竜之に命じて「公設」の「売春場」を建
設することにした。規模は図示の様に2丁角。
この中に創成川畔のアイマイ屋7軒、その他
貸座敷、旅人宿、飲食店、散在する女性達を
すべて押しこめ、女性の数もふやして、この一
廓だけはドンチャン騒ぎも、売春もすべて「公
認」。他の場所ではかたく「ゴハット」として「フ
ーキビンラン」を防ごうとした次第。これが「薄
野遊廓」。
 ところが、50年もたった大正9年(人口は10
万を超えた)、往時の「ススキ」だらけだった郊
外も既に街のド真中になってしまったので、こ
れを川向うの「白石」に移設することになった。
「薄野」時代は高き10尺の木製の「大門」だったが、今度は張りこんでドでかい石造の「大門」を
建てた。北1条通りに大鳥居があるが、あんな具合に広い通りに石柱が2本、デンと立ちはだか
って、その両側はずらりと娼家(売春婦を置いた家)が並んでいた。中学2年の昭和15年に、兎
狩りの集合地が東札幌駅前ということだったが、土地不案内な川向うのことなので道に迷い、払
暁に寝静まっているこの界隈を歩き廻り、「大門」の巨大さと道路の広さと、両側の大旅館群?に
びっくりした記憶がある。
 豊平から菊水にかけての1丁目と2丁目の境で、36号線から12号線までの広道を人呼んで
「大門通り」。豊平橋を渡ってから最初の電停の名称も「大門通」だった。
 しかし当時の大門通は電車道から3丁程東に行ってから始まっていたから、現況はこの間が
拡巾されたものだろう。
 いずれにしろ、「薄野遊廓」の跡は現在も一大歓楽街で世界的?にも有名な「トルコ街」。官許
であろうが私設であろうが同じ目的で活躍しているが、「札幌(白石)遊廓」は昭和32年の売春
防止法の施行とともにその幕を閉じ、僅に残った娼家も会社の寮等に転身し、国立や勤医協の
病院、その他のビルが林立して、車の通過はげしい索漠たる街並と化し、「大門通」華やかなり
し頃を偲ばせる情緒はどこにも見当らなくなってしまった。