その13
         「げんちゃんスロープ」の巻(1981. 4.bP)

 街の中で「自転車」が自由に走り廻れるのは、人口20万位までの都市だと言われている。
そこで札幌市の人口を調べてみると、
 大正14年−14万5千人
 昭和10年−19万6千人
 昭和15年−20万6千人
 昭和20年−22万人
 たしかに札幌も終戦迄は、その様に静かで、のんびりとした街だった。だから西側の山裾に
は殆んど民家もなく冬になると豆スキーヤー達には絶好なゲレンデが南から北へと続いてい
たのだった。
 これ等を南から順に並べてみると「進藤牧場及び水道山」=浄水場付近の斜面一帯。山鼻
小の縄張り。
「温泉山」=旧札幌温泉のあったあたりで、旭ヶ丘高校から沢を一つ越えた西側一帯。山鼻小
の縄張り。
「双子山及び南斜面」=双子山は坊主山で急傾斜。やや上級むきだったが、南斜面は円山の
南側で緩やかなため初級者用。ところどころにタランボが生えていて麓には「養狐場」が唯一
つだけあった。幌西小の縄張り。
「荒井山」=東や北の平地から電車
賃5銭でやってくる連中は、おおよそ
が荒井山に向った。
山容は今もそのままだが、辷りすぎ
ると下の沢に落ちこむ程何も無く、
唯一軒あった休憩所のこれ又5銭の
「そば」がうまかった。フルヤのウィン
ターキャラメルも10ヶ入った小箱が
5銭だった。
「寺口山」=琴似山の手で国立療
養所西札幌病院(旧結核療養所)
の西側一帯。緩急の斜面がそろい
万人向きの好ゲレンデだったが、
山のドテッ腹を「北1条宮の沢通り」
と言うのが巾27米でブチ抜いた為、
山容改まって、その昔、北大生たち
が「シルバー・スロープ」と呼んだ面
影はどこにも無くなってしまった。此
所は勿論、琴似小の縄張りだったが
桑園小の連中も来た。とにかくス
キーと言えば、円山と琴似の小学生
は絶対に上手だったが、この2校は
隣町の小学校だった。
         ◆
 さて、本論の「げんちゃんスロープ」
だが、「温泉山」とは峰続きで、「双子
山」から沢一本をへだてた南側一帯
をそう言った。急傾斜の起伏が多く、
上級者向きのスロープが連続していた。此所で筆者は懸命に「テレマーク」を練習したが、今の
靴と金具では絶対に不可能な回転法で、「カンダハ」よりもう一つ古風な、「踵」が自由に持ち上が
る皮製の「締具」でなければならない。ところでその名称の由来だが、どうもはっきりとしない。一
応はスキー界の先輩、国村源太郎氏を偲んでこの名が付いたとされている。
「双子山」の南側の沢は旧態を留め、それに添った細い旧道も名残を留めてはいるが、沢向うの
南側には山腹を削って巾員15米の「藻岩山麓通り」が走り、「旭山公園」造成により山容はすっ
かり変貌して往時の「源ちゃんスロープ」は跡型も無く消え失せてしまい、その名称も又、人々の
耳からは殆んど消え失せようとしている。
 自転車で走り廻り、大道で「三角ベース」を楽しみ、遠足には全校生徒が列をつくって繰り出し
た頃の札幌市民の数は、今のたった1/7にしか過ぎなかったのだ。

 ※前回の付図で、現在の「道庁敷地」を表すハッチ部分が、南へ1丁ズレておりました。ご教示
下さった方々に厚くお礼申し上げるとともに、おわび傍々訂正させて頂きます。