その12
「大友堀」の巻(1980.12.bR)
先ず「第一図」を見ていただきたい。約110年前の札幌市街で「火防線」が現在では
「大通公園」となり、道庁の敷地は3丁×5丁の面積だが、今では2丁×2丁のハッチ
の部分に縮小されている。先人の気宇広大な都市計画に脱帽すべきであろう。
次に目につくのは、小河川がやたらと市街地を
流れ廻っていることだ。特に黒く塗りつぶした川
は、豊平川の分流だが、上(かみ)を「膽振(いぶ
り)川」、下(しも)は「伏古川」と称した。「伏古川」
をアイヌは「フシコ・サッポロ・ペツ」と呼んだが、
「フシコ」とは(古い・もとの)という意味で、「旧サ
ッポロ川」即ち、「旧豊平川」で、かつては、豊平
川の本流はこの部分を流れていたことを示して
いる。
さて、前号で述べたように、明治維新に先だつ
2年前の慶応2年、幕命により「大友亀太郎」は
現在の元町付近に「御手作場(おてさくば)」と称
する大農場の開発に着手、食糧や本府建設用
資材は、石狩川、伏古川を遡行して現在の大覚
寺付近に到着後、一部は陸路で運搬(現在の
「斜通り」、第一図では「牧場通り」)、他の一部
は水路で運搬する為に「大友堀」を開削したとさ
れている。
「大友堀」は現在の「二条市場」の西側にあっ
た大きな池からスタートして北6条まで北に直進、
それからは北東に向きを変え、光星高校の手前
でもう一度南東に折れて大覚寺付近で伏古川と
ドッキングしていたという。
そこで「第二図」に目を転じていただきたい。
一番下に東西に走るのが「北8条通り」。中央
で少々喰い違っているが南北に通じているのが
「東8丁目通り」。通称「斜通り」がハッキリ見え
るが、その北側を大きく弧を描いた一条の道が
認められる。これが「大友堀」を埋めたてたあと
に出来た「札幌市道」だが、区画整理によりその
名残りは東区役所の西側にホンの一部だけ「国
有地」として現存しているにすぎない。
明治2年、札幌市の世帯数2,人口7、それから110年。たったこれだけの間に歴史は
ドンドン埋めたてられて、原
始河川が縦横に走り廻り。
凹凸のはげしかった原地形は、
僅かながらも「植物園」・「伊
藤邸」・「偕楽園」・「知事公館」
・「北大構内」に残されている
にすぎなくなってしまった。