その11
「斜通り」の巻(1980. 8.bQ)
ほぼ東西南北に碁盤の目の様に都市計画された札幌旧市街地にも例外的な「斜通り」
があったし現在も残っている。もっとも豊平方面や琴似方面は最初から碁盤の目から外
れているので、こちらは論外とする。
(1)南10西21〜南1西24
この「斜通り」は現在の川沿町方面から旧円山村役場(現円山小学校の向い側にあっ
た)への近道として自然発生したもの。裏参道を円山公園へ向って行くと西24丁目あた
りの左手に「一休」という鮨屋があるが、「斜通り」が頂度南1条通りとぶつかる点となっ
ている。
(2)北16西5〜北24西10
これも旧札幌農学校敷地と一般民有地の境界添に自然発生したものだ。私の小学生
時代は北18条で終っていたが、現在ではそのまま北24条迄延びている。
(3)北6東1(?)〜北10東11
この「斜通り」こそ今回のメダマなので以下いささか説明を加えてみたい。何しろ札幌で
は第1号の「公道」と称すべきものだからだ。
◆
明治2年(1869)に明治政府により「開拓使」が設置され本道の首都としての札幌の建
設も始められた様に思われているが事情はいささか異なる。
幕末になると外国船があちらこちらに出没して未開の樺太や蝦夷地の警備が重要課題
となった。安政元年(1854)神奈川条約成立
にともなって
函館も開港場となり「箱館奉行所」が置かれはしたが、何
分にも南端だから中央に首府を建設して全蝦夷地を強力
に防備すべきで、札幌に「本府」を置くことは松浦武四郎
等の意見により幕府の定論となっていたのだった。
そこでまず、物資の運搬補給路を確保する為、船便で石
狩迄来たものを如何にして札幌へ運ぶかであるが、豊平
川は急流で駄目、幸に伏竜川は蛇行がはなはだしいがそ
れだけ流れも緩やかで何とか「大覚寺」付近まではやって
来れる。これから先は運河を掘削することになりこれが創
成川の前身「大友堀」(次号掲載)。又、「本府」と結ぶ一条
の道路も築造されたがこれが何と明治維新に先立つ2年
前の慶応2年(1866)のことだった。幕府の命令とは言え
「公」からの命令で築造されたものである以上札幌市にお
ける第1号の(公道)であることに異論はあるまい。
この道路、巾は5間(9米)だが現在の様に元町や丘珠、
篠路まで街続きとなる以前迄は飛び飛びになっている此等の地点を結ぶ重要幹線となって
人馬の交通もにぎやかで両側には各種商店や飲食店が軒を連ねる様になり直角に交わ
る市道の間を斜に縫って目ざわりではあるが廃道にするわけにもゆかない存在になってし
まった。考えてみれば三角形の二辺を遠廻りするよりは斜に一辺をたどるほうが人馬にとっ
てはづっと有難味があったわけでもあろう。昭和の初期には札幌市営バスが真先にこの路
線を走ることになり、この栄誉は現在でも「東1号(・・)線」という路線名で引継がれている。
又、道路としてのランキングも弟分の札幌「市道」には差を付けて、「一般道道茨戸札幌線」
という正式名称となっている。
人馬ではなく車両交通の激しくなった現状から一方交通になっている部分もあるが、とに
かくこの斜通りを徒歩で一度辿ってみることをおすすめしたい。古き良き時代の札幌の街並
みが僅かに残されているのは、この「道筋」の両側だけだからだ。