その10
          「札幌飛行場」の巻(1980. 4.bP)        

 札幌市内に広大な飛行場があった。と言っても勿論「丘珠空港」のことではない。
毎度のことで恐縮だが、当時と称すれば昭和ヒトケタの時代だが、「札幌市地理読
本」−昭和8年発行、5年生用、定価金20銭−によれば、札幌市は次のように紹介
されている。
「札幌は人口十八萬、本道政治の中心で、北海道廳(ほくかいだうちやう)をはじめ多
くの役所がここに集まって`る。又、商工業も盛な處である。北海道帝國大學もこゝに
ある。西には本道の總(そう)鎮守(ちんじゅ)札幌神社があっておまゐりする人が多い。」
 ところで、昭和55年1月現在の札幌市人口は137万9千人で、中央区の人口だけ
を見ると18万3千人。だから当時の札幌市は、中央区程の大きさで、一寸はづれると
原っぱや畠が連らなった郊外だった。
と、考えればほぼ間違がない。私の今住
んでいる西区琴似1条5丁目202番地は、
札幌郡琴似村字琴似202番地で、二駅
はなれた隣村にしかすぎなかった。
 当時(・・)、市電の鉄北線は北18条が
終点で、それから先は人家もまばらで、だ
だっ広い牧草地と家畜用のデントコーン畠
が地平線まで続いていた。電車が走ってい
た西5丁目通りだけは道路型体が北へ北
へと真一文字に伸びて、北40条あたりに
あった「製麻会社」の農場で消えていたよ
うに思う。後日ここに団地が出来た時、「麻
生団地」と名付けられたのもこれが由来だ。
西5丁目通りと交叉する道路は殆んど無か
ったが、北24条通りだけは立派につけられ
ていた。この西5丁目通りと北24条通りの
交叉点を「南東角(かど)」として北西にかけ
て、「札幌飛行場」が存在していたのだった。
        ◆
札幌と飛行機の関係は思ったよりも古い。
ライト兄弟が初めて飛んだのが明治36年
(1903)のことだったが、それから13年後
の大正5年(1916)には米人アート・スミス
が北20条あたりの上空で曲芸飛行の興行
をしている。どこに居ても見える筈だが、わ
ざわざ金を払って縄張りの見物席に坐った
女学生時代の母の頭上に、エンジントラブ
ルをおこした「カーチス式複葉機」がまっさか
さまに墜落してきて、命からがら逃げだした
−話を聞いている。勿論機体は大破したが、
スミスは右大腿骨の骨折程度で助かったそうだ。
 大正15年には北海タイムス社(現道新)事業部に航空班が設けられ、続いて昭和2年に
は同社が、北24条西5丁目の市有地約2万坪(6.6ha)に飛行場を設置した。そうして
昭和8年通信省航空局所管札幌飛行場として、各種の工事が施され一そう完備した。
(札幌市史・昭和28年発行)ことになってるが、昭和8年と言えば小学2年生の頃で飛行
場の印象としては、北24条の西8丁目あたりに鉄板張りの格納庫が二ツ三ツ、あとは2
万坪か10万坪あるかないかわからない只々広い広い平坦な草原にしかすぎなかった。
         ◆
少年はいつの時代でも大空にあこがれる。その例に漏れず飛行機狂だった私にとって、
飛行場は学校の授業さえ無ければ毎日でもヘバリついていたい所だった。北大正門の
傍にあった我が家から「飛行場」へは電車線路に添って、北へ北へと進めばよい。土曜
日になると待ちかねたように同好の志(と言っても小学生ばかりだが)打ち揃って自転車
で駆け出す。もっとも子供の自転車を持っているのは2,3人位だったから交替々々で乗
り継ぐわけで、全行程を駆け足と言った具合だった。
 運の良い時には格納庫の扉が明けはなたれて白いオーバーオールを着た2人の青年
が、さかんに整備中のことがある。二枚羽根をささえる「支柱」や「木製プロペラ」に厚く塗
られたワニスがトロリと光っている。布貼りの胴体や羽根のところどころには、絆創膏のよ
うな修理の跡もある。
「オジサン、オジサン!!」
「何だい?」
「この飛行機何て言うの」
「ニューポールって言うんだよ」
「速いんでしょ」
「そりゃ速いさ」
「それでも燕より遅いでしょう」
「ウーン、燕のほうがいくらか速いかなー。イヤやっぱりこれの方が速い筈だぞ。アプロや
サルムソンは遅いけどなー。」
 どうもマッハ(音速)を基準とする現代と異なり、実にのんびりした時代だったわけだ。
 整備が終わり、飛行機を格納庫から押し出す仕事になると、羽根のヘリには絶対触らな
いことを条件に、小さな我々は大喜びで脚のあたりに両手をふんばってお手伝いをする。
機体が外へ出てしまうと、格納庫の後に隠れることを命ぜられるが、コッソリ覗き見をして
いると、やがて皮ジャンパー姿の「カミデ」さんが爽壮と機上の人となる。「カミデ飛行士」と
言えば、幼い胸には神様以上の存在だったのだ。それからすぐ飛び立つかと思うと大違い
で、2人の青年がプロペラにすがり付いて、エッサエッサと手で回し出す。そうして「カミデ」
さんが手を挙げると、2人はプロペラの先端にロープを引っかけて、イチニノサン!!と引っ
張る。これを試みること5,6回目でエンジンの両側から猛烈な黒煙を吐き出して轟然たる
始動となる。皆の感激は頂点に達してくる。そうして飛行機は草原をヨタヨタしながら滑走開
始地点へと進んでゆく。
 この頃になると、隠れていた我々は一勢に草原に飛び出して、草むらを葡伏前進しなが
らあとを追うのだった。
 一きわ高い爆音を残して機体が走り出すと、それまで腹ばいになっていた我々が又一勢
に立ち上がって、口々に万歳を絶叫する。あとを追って走る。そうしてそれが粒になり点に
なり、大空の中に溶け込むまで見送っていた。幸福の絶頂感が寝床につくまで続いていた
ものか、長い帰路の思い出は全然残っていない。
                      ◆
「九一式戦闘機」が来ていると聞けば、学校から直行で、高翼単葉のそのスマートさに胸
をときめかせ、「九三式軽爆撃機」が来ると、又走って行って、低翼単葉、生子ジュラルミン
板を貼りつけた、全金属製の偉容?と、コバルトブルーの襟章をつけた飛行兵の活溌な動
作に限りない、あこがれを抱いた。(当時の軍服は詰襟型で、兵科により襟章の色が異な
り、歩兵は赤、騎兵は緑色等だった)。
 昭和11年、大日本帝国陸軍の最後の大演習が札幌を中心として行なわれ、観兵式はこ
の飛行場で行なわれた。ボーイスカウトだった私は「大元帥陛下」のすぐ後方で、これを見
学している。又翌12年からは「日本航空輸送株式会社」(日航の前身)によって、札幌〜東
京間の定期航空が開始され、使用機は濃紺色の「スーパー・ユニバーサル・フォッカー」、
所要時間は5時間10分、運賃は片道55円だったそうだから汽車賃の10倍以上したこと
になる。後にこの「フォッカー」は低翼単葉全金属のフランス製「エンボイ」に変った。 その
後、東京〜ロンドン間の新記録を樹立した「神風号」と同型式の「九七式偵察機」や、引込
脚のまだ発表されていない新鋭機等も数々飛来したが、「憲兵」がうるさくて、北24条から
遙かに眺めるだけで満足しなければならない時代に突入して行った。
 昭和19年春、学徒勤労動員で根室の西春別へ狩りに出されることになった我々学生は、
幌北小学校の屋体に泊らされて、飛行場で施工中の「板敷滑走路」を見学したが、何のこ
とはない、整地された上に5寸角を「転し根太」よろしく並べ、その上に3寸×1尺の平割材
を敷きつめる工法で、「丁字鎚」なるものが緊結金物
として使用されていた。同年の秋口、西春別陸軍第四
飛行場に完成した「板敷滑走路」へ重爆撃機の「呑竜」
がその巨体にもかかわらず無事着陸したのを見ると、
強度は結構あったものらしい。
 昭和20年8月15日の終戦に伴い、9月には「繰り上
げ卒業」と言うことで学窓を押し出され、仙台から帰札
した私は進駐軍のスイング少将指揮下の第十一空挺
師団が、愛する「飛行場」で盛に降下練習をしているの
を望見し、敗戦の惨めさをしみじみと感じて、もう二度と
行くまいと強く決心した。
                 ◆
 それから30幾星霜、「札幌飛行場」だった一眺の草
原には、区役所・北高・ろう学校・一般住宅等が林立し、その面影の片鱗すら残ってはいない。
 しかし、白楊小学校の西側、西8丁目には、北24条通りに面してコンクリート製の武骨い「門柱」が二基所在なげに突立っている。
 これこそ私の幼年時代から青年時代にかけての「ヒコーキ」に対する、限りない憧れと思い出の凝縮された「札幌飛行場」の正門である。
 どうしてこれだけが残されているものかわからないが、とにかく、永久に突立っていてほしいものだ。