その1
          「魔の踏切」の巻(1976.12.bR)         

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 私は大正14年(1925年)、市内北12条西2丁目2番地で生まれ、昭和7年、札幌市公立北9条
尋常小学校(校門にこう書かれた表札が掲っていた記憶がある)に入学した。
 一年生の秋には、北8条西5丁目1番地に引越したがいづれにしろ「鉄北」育ちである。
 当時、札幌市民は18万足らずで、小学生は相手の帽章さえ見れば、すぐ学校名がわかり、相手
の縄張もわかった程度の小都市だったので、東西南北いずれの郊外へも簡単に足が延ばせたの
である。「山鼻」の伯母さんの家へ行く。この「山鼻」は一体南何条あたりからを云うのであろうか。
「山鼻」生まれの家内(南17条西11丁目生)に聞くと、「南11条通り」より南ではないかしら、と答え
る。しかし当時私の「山鼻の伯母」は南7条西13丁目に住んでいたのである。
 いずれにしろ「山鼻」と称する地名は生きている。だが幼い日の私たちが日常云いなじんでいた地
名で、すでに忘れ去られたものが相当あるので、これらを思い出しながら書き綴ってゆきたいと思う。
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 「魔の踏切」の巻
 西11丁目(石山通り)を真直ぐ北へ向い、植物園の竹垣を右に見て、北5条の電車通りを横切り、
約200米北進すると、函館本線に行き当る。
 又、逆に北大の「中央講堂」の南側の小径をたどると左側は林檎園、右手の農学部をすぎるとこの
小径は曲って南に向う。左手の林檎園がつきるあたりに、「測候所」があって、間もなく「鉄道線路」
に行き当る。
 此所が有名な「魔の踏切」であった。何しろ急いだものだから、札幌市内を走る鉄道線路はとりあ
えず既存の北6条通りに布設されたのだそうで、これが伊藤亀太郎さんの屋敷(現伊藤組土建社長
邸)の裏手から、約45度カーブして、あとは軽川駅(現手稲)まで真直ぐに続いている。このカーブに
ある踏切は、左右の見通しが極めて悪く、夏は自殺者が続出し−それ程でもなかったろうが、当時
私にはそう思われた−、冬はレールの両側が雪の塀のようになっているので轟音もあまり響かない
こともあって、突然飛び出して来た汽関車に轢き殺される人々あとを絶たず−ややオーバーだが−
人、これを「魔の踏切」と称せり。と、いうことになった次第らしい。
 ポ・ポ・ポ・ポ・・・・・・と短く尖い汽笛が続く。私は耳をそばだてる。
暫らくして、ポ─・ポ─と物悲しい汽笛が長く尾を引いて流れてくる。私はソレッとばかり駆け出す。何
しろ時計台の鐘の音が札幌中に聞こえた頃だから、汽関車の汽笛は一層よく聞こえる。現場に走り
つくと既に悪童達の顔がそろっていて、筵から飛び出している血だらけの片足を指さしながら、ヒソヒ
ソとやっている。と、いった様なシーンが展開されたものであった。
 これが秋の夜となるといけない。帰って来て布団にくるまっても、寒さと恐ろしさで胴震がとまらず、
或る夜寝小便をやらかし、親父にこっぴどくドヤされてからは、駆け出すことはやめにした。
この踏切には後日、札幌で最初に、赤電球が点滅して、チンチンと鳴る警報器が取り付けられた。
又、踏切のすぐ傍らにあった養鯉場の池のほとりには、ここで亡くなった仏の冥福を祈って線路に向
って大きなお地蔵様が立っていた。
 オリンピックを契機に立体交叉化されたこの踏切に往時の「魔の踏切」の面影は全然ない。
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「お地蔵さま」の存否を、札幌駅から琴似の寒研へ汽車通勤している弟に確めさせたら、早速返事が
あった。
「兄貴、お地蔵さまは健在だ。大きな建物の陰に昔のまま立っているよ。
 しかし、魔の踏切という名称が通じるのは、俺の年代までだ。」
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 弟は昭和7年生れの、44歳である。
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