その53
     「札幌原人」の巻(1994.12.bR)

 最近は、若い会員連中から、
・「札幌原人」とは何者なりや?
・それにしても、古いことを良く覚えているのは何故だろう?
・いつまで続けるつもりなのか?
等々、色々な声が聞かれるそうだ。 思えば昭和51年の第3号(12月1日発行)以降、延々
と18年間も覆面で寄稿を続けてきたのだから、私を「知る人ぞ知る」。「知らざる者」からは
前掲のような疑問の声がおこるのも、もっともの事だろう。
 そこで今回は、その覆面を脱して、「札幌原人」の由来記を述べることにした。
 数多い声のなかには、
・新しく生まれ替った「街」には、内容がそぐわない。
・年寄りには懐かしいだろうが、若い我々には何の興味もない。−要はつまらない。
と、いうのもあるらしいから、それならそれで、この稿をもって筆を置くことにしようと思っている。
                   ◆
  「札幌原人」とは
 平たく云えば「札幌生れ」の「札幌育ち」を一寸ヒネって、「北京原人」に做ったわけだったが、
敢えて「原人」としたのには次の様な理由があったのだ。
 親子3代、住みついていなければ、本当の「江戸っ子」とは呼べないそうだ。従って、親子3代
以上、札幌に住んでいる者でなければ「札幌っ子」として胸を張る資格はないもの、と、考えて
も良かろう。
 この稿を読む人々の中に、これに該当する者は、恐らく数少ない筈だ。だから、今、札幌に居
住する人々の大半は「新、札幌っ子」とでも呼ぶべきであろう。
 その点、私は父系・母系のどちらから数えても「4代目」なのだ。
  【父系】
 幕臣だった曾祖父は彰義隊で一暴れした後、明治7年に渡道して来た。
 その孫として生まれた父が、「札幌中学」(後に札幌一中・現在の南高)に通う頃は、南1条通
りも「三吉神社」以西には人家はまばら、学校は当時、北10条西4丁目にあったが、それ以北
に人家は殆ど無し。「大通」では乳牛が草を食み、伊藤邸の池には(先代が同級生)鮭が遡上し、
「道庁の池」付近を夜通ると、「イタチ」がキーキー騒いでいたのだそうだ。
  【母系】
 曾祖父が、明治8年、屯田兵の世話役として、現在私が住んでいる「琴似」へやって来た。
 その孫の私の母の女学生時代は、まだ札幌市ではなく、「札幌区」だったそうだが、「馬鉄」に
替り「電車」がやっと走り出し、定山渓温泉にも「汽車」が通う様になったが、断崖絶壁の景色の
良い方に乗客が片寄りするので、「汽車がひっくり返ります!!平均に座ってください!!」と、
車掌が汗だくで整理をしていたものだそうだ。
 このような両親から、長男だった私は小さい頃から昔話もよく聞かされた上に、当時90歳を越
えていた裏の婆さんから「薄野へワラビ狩に行った」話なども聞かされていたので、幼い頭脳に
も、「いろいろな事」がビッシリと詰め込まれたのだ。
 そうして、幼い頃から「歴史」が好きだった私には、詰め込まれた事柄の中でも「歴史的」なも
のだけは、今でも強烈に残されていることは、否めない事実なのだ。−これが、古い事を良く知
っている原因の1つだろう。
  【私の生い立ち】
 私は大正14年(1925)、勿論札幌市で生まれた。
 当時の人口は14万5千人、行政区域は現在の中央区に、北区・東区・豊平区・白石区・南区
のホンノ一部分が加わった、道路も碁盤目に整った、静かで清潔なコジンマリとした街並だった
ようだ。
 小学校へ入ったのは昭和7年(1932)で学校数は僅か13校にすぎなかったから、学帽の徽
章を見ると、すぐどこの生徒かがわかり、それなりに遊ぶ場所の「縄張り争い」などもあったもの
だ。
 そうして、「馬鉄」から「電車」に替った「市電」の最盛期でもあったらしく、記憶をたどると次の
路線が思い浮かんで来る。
・北18条−一中前(南17条)
・西20丁目−豊平駅前(定鉄)
・道庁前−苗穂駅前(国鉄)
・円山公園−一条橋
・松竹座前(薄野)−中島公園
・西15丁目(北5条)−桑園駅(国鉄)
・ 山鼻西線(一中前−南1西15)
 片道6銭、往復で11銭だった筈だが、円山でお花見をして札幌駅前迄帰るには、南1条を廻る
のと北5条を廻って来る2コースがあったが、北5条経由は「田舎廻り」と称し、畑地が多かったし、
山鼻西線にいたっては、夏草が線路傍まで生い茂り、単線で全くの郊外線とでも云う様な田園風
景だった。
 昭和13年(1938)、当時の札幌一中(現南高)に入学したが、通学距離が1里(4粁)以内の者
は総て徒歩の規則だったので、毎日同じ道を歩くのはつまらない。そこで1本づつ道を替えて歩く
ことにして、細い小路までも卒業まで探索したが、幼い頃聞いて、「それはウソだ」と思っていたこ
との実地検証でもあったのだ。
 家系図を作ってみたり、お墓詣りには「家紋集」を持って行き、墓石の家紋を調べては、その祖
先の歴史を空想したりしていたから、やはり相当変った趣味の持ち主と云うべきだろう。
 当時の人口は16万程だったから、まだ私の生ま
れた大正末期とは、あまり変りのない街の「たたず
まい」だったようだ。
 旧制の仙台工専を卒業して建設業界に身を投じ
たが、好きだった英語力を買われて、先ず着任した
のが真駒内の米軍基地「キャンプ・クロフォード」の
建設現場。それから10年間は北は稚内から南は
沖縄まで、米軍工事ばかりを担当してきたが、「浮
草稼業」から足を洗って「札幌市役所」に転じたの
が昭和31年の事だった。
 その頃は人口も43万、10年ぶりの札幌は大きく
膨れあがっていた。
 そうして、人々の口からは、「澄川」だとか「栄町」
だとか「川沿町」等の聞きなれない地名が飛び出し
てくるのには驚いた。
 よく問い正してみると、
 澄川→旧「北茨城」
 栄町→旧「烈々布」
 川沿町→旧「八垂別」
であることが判明したのだった。
 だから「」も「藻南公園」となってしまったことも納得
できた。
 さて、昭和48年に「建築指導課長」を拝命したが、「あて職」として建築士会の「事務局長」をお引き受けすることになった。
 そもそも、私は発足当初からの会員ではあったものの、これと云うお手伝いは何一つしたことが無かったので、「ご恩返し」にと考えて、公務半日、局長
半日の業務を始めたのだが、当時の「士会」は専従職員の「使い込み」(被害者の内には健在の
方もおいでだ)等の後遺症もあって惨憺たる状態で、そうせざるを得ない状況下にあったのも事
実だった。
 60歳以上の役員はご退陣いただき、役員会組織を改革し、委員会制度を発足させ、シンボル
マークを定め、会誌の拡充を計り、経理の健全化に努めること等、足掛け6年はまたたく内に過ぎ
去ってしまった。
 この間に、「支部だより」の穴埋めとして投稿を始めたのが18年も前の事になるとは思わなかっ
た。
 市役所を定年退職後は「北海道建設業協会」に勤め、これも卒業して現在は、建設会社の技術
顧問・住宅メーカー団体の事務局長、そうして専門学校の講師と3役を掛け持ち、1週5日は結構
フル回転の生活を送っている。
 「古地名考」のネタはまだ残っているので、後世の為にも、書き続けるつもりではいるが、本誌に
続掲するかどうかは、繰り返すが読者の意向に添いたいと思っている。
  【最後に】
 私の氏名は小川高人、69歳である。