その33
          「屠殺場」の巻(1987.12.bR)         

 源平・鎌倉時代の鎧や兜は大きくて重くて、現代人が着用すると身動きならない代物だ
そうだが、この事実に対して、あれは飾り物で実戦にはもっと軽快なものを着用していたの
だ、という説と、当時の武士は実際に着用して戦ったのだという両説がある。
 前者はもっともな説だが、後者を主張する人々は当時の食生活から説き始めるのが普
通だ。
 すなはち、ご飯と味噌汁、漬物に芋の煮っころがしで育った私達世代の人間と、ミルクに
バター、肉類にチーズ等の動物性蛋白質を生れたときからフンダンに摂取してきた人間と
では、生物学的に身体の伸張率がグンと異なるというのだ。たしかに息子は勿論だが、娘
でさえも男親より背の高いのがザラにいる世の中となったことはたしかだ。
 従って、栄養豊富な玄米を1日に2食、副食には鳥や兎や猪をバリバリ喰って、それが商
売だから朝から晩まで戦争の稽古で身体を鍛練していた武士階級は近代人からみれば、
すばらしく頑健な身体の所有者であり、あの重い鎧兜に身をかため、馬上豊かに刀を振り
まわすことも、自由自在であった筈だ、という説はもっともだと納得もできるし、実際に徳川
300年の鎖国の間に仏教は隅々まで浸透して、ヤレ4足は喰ってはいけないの、精進料
理だのと云っているうちに日本人の体格は退化を続け、幕末における男性の平均身長は
5尺(150糎位)、女性は4尺7寸(140糎位)にまで低下したことは解剖学的にも証明され
ている。
                         ◇
 それはさておき、明治維新・文明開化の世となって、西洋に追い付け追い越せで肉食が
どんどん普及してくると、当然肉獣を屠殺する設備や場処が必要になってくる。しかし江戸
300年の間の習慣で、日本人にはケモノを殺すことはザンコクで可愛そうでとてもまともに
は見ていられない。もっとも大部分の日本人は今でもそうなのだから、食肉になってしまえ
ば何ともないものの、殺す場面だけはご免こうむりたい。かくして、屠殺場が人目につきにく
い郊外に設けられたのは理の当然だ。
 ところで札幌の屠殺場は最初の頃はどこら辺にあったかと云うと、真偽の程はさだかで
はないが、どうも現在の「柏中」(南21西6)あたりだったらしい。と、いうのは旧一中(南高)
の大先輩が、「南風が吹くと、屠殺からナマグサイにおいがただよってきてマイッタものだ」
と喋っていたのを記憶しているからだ。この大先輩が1年生の時北10西4にあった旧校舎
から今の南高のある南17西6の新校舎へ引越したとのことだから、大正11年の話。勿論
私の生れる前のことで70年近くも昔のこととなる。私が一中(南高)の1年になった昭和13
年でさえも校庭の南側、現在環状通りが走っている南19条付近には桑畠が残っていて、
旧二高小(現柏中)のあたりは石原だらけの田舎だったのだから、屠殺場が出来た当時は、
札幌の都心を遠く離れた郊外だったに違いない。しかし私の時代には既に旧二高小(柏中)
があったのだから、これは大正末期か昭和の初期には引越してしまっていたことになる。
 引越した先が、本稿で述べる「屠殺場」だが結論は後まわしにする。
                          ◇
 これからの話は越山さん(設計事務所)や、屠殺場に関係のあった数人の人々からの「聞
き及び」だから文筆の責任は私には無いのだが本当にだったろうと思われる。
・豚・馬・牛のなかで、一番あばれるのは豚で、これはキーキー泣き叫んで大層騒がしい。
馬も飛びはねて騒ぐが、牛だけは観念したという態度で比較的おとなしくて、「今はの際には
ポロリと涙をこぼした。」
・人目をさける為に「屠殺場」の周囲は高い塀で取り囲まれ、室内は血が流れ、飛び散るの
で床はコンクリート又は石敷き、壁はコンクリート又はそれにタイルを貼っていた。
・室内に収容された肉獣は、名人屠夫のハンマーで眉間をコツンとやられると実にあっけな
く、コロリと倒れてしまう。後年にいたると、豚は「電殺」牛馬は「銃殺」された。
・昔使っていたハンマーは、先の鉄の部分が径1糎位、長さは10糎程度で先端はトガッテい
るのではなく逆に丸く凹んでいた。要するに「鳩目」の大型のようなもので、これでポカリとや
れば眉間に1糎位の穴があいて、相手は脳震盪でブッ倒れる。そうしてこの穴から鉄棒を差
し込んで脳味噌を引掻きまわすと、相手は完全に「脳死」状態となる。
・脳死状態になるとすかさず心臓をグサリとやって体内から血を排出させる。首を切る。皮を
剥ぐ。腹を裂く。臓物を取り出す。電気鋸で真二ツにする。係官がチェックして食用に支障無
ければ紫色の検印をペタンと押す。大きな鈎に逆に吊られて、ガラガラと食庫へ。この間10
分足らず。既に一つの塊となったこの時点でも、肉はまだヒクヒクと動いている。
・夜になると、時には「屠殺場鍋」が始まる。素人衆は知らないうまいところがあるんだ。それ
はどの部分かと聞かれても、絶対に秘密、秘密だよ。
                        ◇
 私の弟(昭和7年生)は幼き日、何度となく琴似駅で、可愛そうなシーンを目撃したそうだ。
 貨車にギッシリとつめ込まれて来た牛や豚が無理矢理におろされる。なかには、いやがっ
て騒いで転げ落ちるのもいる。角の折れる牛もでてくる。とにかく勢揃いさせられると、踏切
を越えて向側に渡らなければならないのだが、ここでも又一騒動が持ちあがる。この時追い
たてる小父さんたちの見幕の物凄さに子供達は皆オジ気を震ったものだそうだ。そうして踏
切を渡り終えて、競馬場の方向へ、心なしかトボトボと歩を進める牛の列の中には、折れた
角をブラブラさせながら根元から血を流しているのが何頭かまざっていた。
                         ◇
 彼等は何処へ。といえば勿論「屠殺場」へなのだが、いつの時代にか南にあったらしいこの
施設は、競馬場の奥に移されていたのだ。
 昔から、そうして今では交通の激しい道路が
競馬場の東側を走っている。この道路は途中
で「下手稲通」と交差するが、そのまま行くと
「新川」につき当たる。向い側には「武蔵女子
短大」が建っているが、この道路のドンヅマリ
と琴似川が新川へそそぐ川口とにはさまれた
三角状の土地に「屠殺場」があったのだ。この
あたり一昔前迄は低湿地帯で一寸した長雨で
も降ると水に漬かって、ボツラボツラ建ち出した
民家を救済の為ゴムボートが出動していたぐら
いだから、人里離れた郊外で格好の敷地だっ
たことには間違いない。
 とにかく、この「屠殺場」は陰惨な雰囲気をた
だよわせて、つい最近迄あった様な気がする
ので、今は中央区民センターの所長さんだが、
事務局次長として長く協力していただいた藤
江さんが、保健所経歴もあることを思い出して
電話で問い合わせたところ、昭和52年まであ
りましたが、今は江別の角山に移り、道の所管
となって、名称も北海道畜産公社となっている
筈です。とのことだった。
 引越してしまった跡地がどうなっているかを調
べてみたら、何と、何の変テツもない競馬場の
駐車場と化していることが判明した。
            ◇
 ともあれ、「屠殺場」は地名ではない。しかし、
これしかなかった郊外だった時代には、この
付近一帯は「屠殺場」という地名的な感覚でとらえられていたことは事実だ。52年迄も存在
していたことは驚きだったが、思うにトラック輸送が盛になるにつれ、ケモノ達は直接構内に
送び込まれるようになって、弟が幼い胸を痛めたような情景が見られなくなったことが、その
存在を薄めていたものだろう。
 いずれにしろ、「屠殺場」といえば「ああ、あのあたり」と、地名的感覚で受けとめるのは、50
歳以上。そうして札幌生れで札幌育ちの人間に限られてきたようだ。