その17
         「アンパン道路 」の巻(1982. 9.bQ)

 「アンパン道路」の事を話すとなれば、先ず「月寒アンパン」これを略して「月寒パン」のこと
から始めなければならない。
 50歳以上の人ならこの「月寒パン」を懐しく思い出してくれる筈だが、昭和20年の敗戦で
帝国陸軍が崩壊してしまうと同時に「月寒パン」も姿を消してしまったのだ。
 今でも「アンパン」はある。白いフワフワしたパンの中にあんの入ったのがそうだが「月寒
パン」は全然それとは異なったパンだった。今の「アンパン」の両面を手で押しつぶしてフワ
フワを無くした状態で、現在、千秋庵でだしている「ノースマン」と云うような具合のものだっ
た。表面にパラパラと胡麻が振りかけてあって、真中に乾ぶどうがチョコンと載っていた。大
と小があって、小のほうで直径7糎位、厚みは13粍程で適当な湿り気があり、これが今の
「アンパン」のモソモソとして、のどつまりしがちな喰い心地とは全然違っていた点だ。
 次に月寒にあった帝国陸軍の「歩兵第25聯隊」のことを述べなければならない。先ず陸軍
の組織と云うものは古今東西、殆んど同一で現在の自衛隊の「連隊」が旧「聯隊」であったと
考えればよい。その頃は国民皆兵で満20歳の兵隊検査に甲種合格した壮丁は本籍地附近
の聯隊で兵役につくことになっていた。本籍地附近の聯隊に入るのだから、新兵で入っても
知った顔が多い。大佐(一佐)の聯隊長殿や高級将校は中央からの「天下り」であっても、下
級将校はおおむね地元出身者で、俺の小隊長殿は小学校の先輩で、向いの雑貨屋の兄さん
だ。と、いう様な場合もあったわけで、全国各地に散らばった各聯隊の兵士は、それぞれの風
土に育てられた強烈な個性と愛郷心、ひいては愛国心を抱きながら猛烈な訓練にも耐えたも
のらしい。だから、 
 又も負けたか8聯隊(大阪)−弱 
全員決死の13聯隊(熊本)−強 
俺が俺がと15聯隊(高崎)−騒
ネバリの31聯隊(弘前)−鈍
と、この様に、地方性や気質からそれぞれの定評があり、敵も十分にこれを研究して作戦を
練ったものだそうだ。
 ところで、我が25聯隊だが、終戦近くに、寄せ集めで新編成された百何十聯隊などと違っ
て、レッキとした正統派だ。何しろ編成されたのが明治32年で、明治37年には日露戦争に
従軍して乃木大将を、ノイローゼにした程の難攻不落だった、あの「203高地」をシャニムニ
攻め落したのだからこれは強い。強いものだからアブナイところにばかり廻されて、ノモンハ
ンではソ連戦車にさんざん痛めつけられた。終戦時は札幌は留守の老兵にまかせて、樺太
(サハリン)は北緯50度、日ソ国境の上敷香に移駐していたが、この時も又ソ連に散々やら
れている。
 しかしこれは戦時の事で、平和な時代は、1日の訓練が終わると兵隊さん達は酒保(PX)
に行って、「うどん」や「そば」、「甘い物」も喰うことができた。この甘い物の中で兵隊さん達
に1番人気のあったのがこの「月寒パン」。当時は聯隊の門前町であった月寒市街に三、四
軒のパン屋さんがあって、聯隊に納入するほか札幌市内にも卸していたので、これが我々
子供達の「お八つ」になっていたわけだ。
 ところで、これからが本論となるのだが、明治43年(1910)に、札幌区に豊平町の大部分
が編入され、町役場が月寒25聯隊の正門の向い側に移された。さてこうなると平岸村の人
々は一たん豊平に出て、それから月寒へと、三角の二辺を歩かなければならない。極めて不
便だ。だから平岸村と月寒村を直接結ぶ道路開削が開始されたのが明治44年の6月。この
時、25聯隊の兵隊さんたち延べ7,500人が協力してくれたので全長2.6粁が僅か4ヶ月で完
成したという。
 ブルもグレイダーも無い時代だから道路開削も人海戦術でいくより仕方がない。人海戦術
となればこれはもう頭数の多いのが勝ちで、25聯隊からの御手伝いは村民にとっては感謝
感激で、休憩時間には毎日1人に5ヶづつ「月寒パン」をサービスしたそうだ。従って兵隊さん
よありがとうの気持ちが道路の通称として「アンパン道路」となったのがその由来。
 この道路、いまだにその名残りを留めている。学大前をすぎて22条橋を渡る。暫く行くと右
手が「平岸霊園」。これから坂を上り下りすれば舗装道路は直角に国道36号線にぶつかるが、
この部分はオリンピックに先立ち完成したもので、その前は左に折れて、沢添いに屈曲した
細い道だった。この沢添いに屈曲した2車線たらずの小径が「アンパン道路」の名残りだそう
だ。
―――だそうだ、と云うのもこの文は「豊平町史」を研究して書いているわけではなく、故老か
らの話を聞いた記憶のみで綴っているからだ。先日も通ったが、この小径は生きている。そう
思いながら走るとなかなか情緒のある小径だ。