その16
          「八垂別」の巻(1982. 4.bP) 

 古地名考も16回目を数えるにいたった。昭和51年12月に発行されたその年の第3号に
(その1)として、「魔の踏切」の巻が掲載されてから何と足掛け7年も続けられたわけで今更
のように驚かされる。と、ともに次第にタネ切れにもなってきたので、今迄の話の中でサラリ
と流していた部分を改めて取り上げてゆきたいと思う。従って今回の「八垂別」は(その3)の
「花魁淵」の巻で一寸ふれている。



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 さて、「八垂別」なる地名だが勿論アイヌ語からきていて、ハッタル=淵、ペツ=川に由来して
いる。開拓使は「発足別」とか「発垂別」と記しているが、のちに豊平川本流に流れ込む1号から
8号の沢にちなんで「八垂別」といわれる様になったらしい。とにかく現在の川沿町、北の沢、中
の沢、南の沢の四つの広大な地域を一括して、「八垂別」と呼ばれていたのであった。
 昭和11年には簾舞のダムが完成。戦後、長大な豊平峡ダムが完成し、現在では小金湯その
他に数ヶ所の堰堤が設けられて、常時は水量も少ない、おだやかな渓流にすぎない豊平川の
上流も、昭和の初期までは、水の満ちあふれた深山幽谷のたたづまいであったことは想像され
よう。
 しかし、昨年8月の記録的な豪雨により、堤防一杯に激流が咆哮する恐ろしい豊平川のすざま
しいエネルギーに一驚されたムキも多いと思うが、何の事はない、ダム一つない時代の豊平川は
一雨降ればあの様な状態になる極めて危険な川で、現在大都市の内を流れる川の中で、豊平
川が日本一の「急流」であることを知る札幌っ子は案外少ない。
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 渓谷にすぎなかった豊平川も、石狩平野への入口に当る「花魁淵」(現藻南公園付近)で一服
して大きな「澱み」を形造る。一雨降るとその巨大な流水エネルギーはこの「澱み」を一応のクッ
ションにして、あとは一気に札幌市内方面へと奔出する。
 大きな流れのうちの一本は左岸ぞいに「軍艦岬」をへて山鼻方面へ網の目の様に分流していっ
たようだ。戦時中、防空壕を片隅に掘ったところ、南7条西17丁目の我が家の土地は、一尺程の
表土から下は荒い砂層が、かなり厚く沈積していることを知ったが、この間の事情を物語る一つ
の証拠と思っている。
 この左岸山ぞいの分流は、山ぞいなるが為に、侵食作用と沈積作用の
連続で極めて屈曲のはげしい、「淵」と「瀬」が入りまじった様相を呈したものと思われる。「明治
二巳歳札幌之図」という古地図にはこの川にそって「ハツタラベツ道」と記入があり、アイヌが往
来した小道があったことがしのばれる。この小道が国道230号線の旧道となり、大きな中洲を貫
通して現在の新道が出来上り、又、藻岩高校等も建てられ、旧道添いに流れていたハッタリペツ
(淵の多い川)は消滅してしまって旧道の曲屈のみが僅かにその遺影をしのばせている。
 又、古い地図には山の手から「ハッタリペツ」に「ポンハッタリベツ」・「ポロハッタリベツ」等の小
川が流れ込んでいるのが見られるが、これ等が後日、北の方から順次「1号の沢」・「2号の沢」
というように無味乾燥な「和語」に置きかえられたものだ。そうして現在では1号から8号迄の沢
も「北・中・南の沢」の3つに一括統合されてしまっている。
 もと「八垂別」その名が示すように、断崖深淵多く、古くから景勝の地として知られ、屯田兵の
給与地として蔬葉供給の一翼を荷ない、果樹園多く、一面の牧草地に牛が遊ぶ往時の風情、
今いづこ。−と、なってしまった。